だれのために ぶどう摘むの だれのせいで 四角な露
だれのために はさみ鳴らす だれのせいで みどりの虹
籠を抱けば すあしの道 ひとつぶ 愛はこぼれ
かわく土で ことば持たぬ 種子になる 炎あげて
だれのために けさもひとり 青いぶどう 摘むの摘むの
(谷川雁 「ぶどう摘み」)
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詩というものを読んだことはほとんどまったくない 教科書に載っているから知っている、程度の匙加減で けっこう適当にやっている 文字は書きたいから書いているし書きたいことしか書かないのが本当だと思っている 10年くらいそうやっていて、膨大なことばをはきちらしていて ときどきたまにすっからかんになる。
詩ってなんでしょうか。
あなたの書くことばは詩みたいですねと言われることに慣れきっています インターネットの世界をうろついていると詩というものが驚くほど増産されていて 個人ページの片隅なんかにPOEMと必ず記してあるくらいそこらじゅうにあって 詩ってそんなにありふれたものだったのかと躊躇うこと、しばし、
だって詩のことばなんてとても非日常的なものじゃない? 作文なんかは嫌われる面倒くさいもので それを考え込みながらもさらさらと書いて提出するわたしみたいな子どもは むしろ「ヘン」の部類に入らなくちゃいけなかったし 高校の中途からなりゆきで文芸部に入ったけれど そんな場所でことばをつむぐようなやつらはやっぱり皆どこか「ヘン」だったと思う その変わり者集団のなかでわたしははじめて手をのばして泳げた気がする だから余計に驚く
デジタルに変換されて飛び交っているめちゃくちゃに大量のことばの列をみて
似たような文字の配列で似たような自分を吐露して それをオリジナリティと呼ばれたいなんて、かなり、 どうしていいかわからなくて泣き笑いするような、道化じみたことだ 直視できなくて逃げる そこにある言葉をわたしはどう扱っていいのかよくわからない それだから世間に流布している詩というものをわたしはたぶん ほとんど知らない
……と、 ただ逃げているだけのわたしのことばが詩のようだと言われてしまうヘンテコな現実 うがった見方をすればそれはただわかりにくいっていうことの代名詞なのか知らん? と、そんなことを思っていたりも、します。
谷川雁の「ぶどう摘み」は合唱曲で とてもやさしい曲がついている 新実徳英というひとが作った音だ そのことばだけですれ違ったらわたしは転ばなかったかも知れないけれど 音楽と一緒に出会ったから、わたしは、このことばに転んだ そうやって出会ったいくつかの「詩」のことをわたしはとても好きで 音楽が好きなのかことばが好きなのかどっちなのかよくわからないくらいに ぴったり寄り添って「好き」。
自分の付き合っていることばが一体なんなのかよく知らないし あなたは詩人ですなんて断言されてしまったら対処なく諸手をあげて、困る けど、 ただ、 どうせ何かことばを吐かずにいられないというんなら 暗いところに「ひきづりこまれてゆくやうな」そんな重力じゃなく もっと、ただ、とうめいにあかるくて すきとおった水を飲みほしてゆくような、そんな絵を すぐさま脱ぎ捨てて解放されて飛び立ってゆくくらいの軽さで 添えられたらいいと思っていた
ぶどう摘みをうたうわたしのように
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