日曜日の午後、 夕方、 腫れだした炎症の痛みがなかなか取れないで 記憶はうすい。
「落下する夕方」をビデオでみようと思った。江国香織原作。
好きな小説を映像にした作品を見るときわたしはあまり もとのことを考えない。折に触れて持ち歩き十辺も読んでしまったような小説なら なおさら。
なんにもかんがえない。 ただ、みるだけ。 そこに差し出されてゆくものを ただ、みるだけ。
言葉は、あまりなくて そのかわりに つぎはぎされたショットと 動きと、音楽が、語る 内包しているストーリーと こころの動き。
それから逸脱している誰かがいて、それがどこか狂気的で。
「華子」
無邪気に笑う 狂乱的なくらいに 子どもっぽい大人は いい気になってるって他の大人から叱られるけど でも
「わたし、おこられるの、だぁいっきらいっ」
赤いくつしたを脱ぎ捨てて 言いたいことだけ言っているようで したいことだけしているようで 赤いスカートでぐるぐると回って 夕暮れの海辺はきんいろでひかりを思うさま撒き散らして 深い息をついてどさりと座った浜辺の
おひさまが残していった、あたたかさと
しのびよってくる、しぃんとした、つめたさ。
水を含んでしっとりとした顔で背中からふうっと寄ってくる しずかな、おだやかな、つめたさ。
(それから彼女は月が消えるみたいにいなくなった)
ひっきりなしにやってしまう「自傷行為」から少し解放されてわたしは見守る。 そうやって画面をみつめて画面に吸い込まれて物語の一部になって お話が終わったら目がさめる……はんぶんだけ。 残りのはんぶんのわたしはまだむこうがわにいて物語の中で うとうと眠ってる。
そういうふうに半分だけ生きていることを (逆にいえば半分は死んでいることを) お薬と本を枕もとに眠りはじめてから 正しく、身につけはじめたような気がします。
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北野武、といい、 EUREKA、といい、 しずかな うっかりすると眠ってしまいそうにしずかな そうして危険な気配をはらんだような空気が漂う そういう映像をわたしは最近 かなり好きらしい。
ストーリーは劇的じゃなくていい。
現実が小説よりも波乱万丈だったのなら 小説の中には色とりどりにふんだんなドラマはなくっていい、と そんなふうにおもう。
痛みも。 かなしみも。 いとおしいと言う言葉も。 ひとの生き死にだって。
そんなに素晴らしい音楽を背景にしてドラマチックに 語られなくってもいいとおもう。
日常生活には効果音はついていない、 こころにあわせた音楽なんて流れてくれない。 わたしを引っ掻き回すいろんな無意味な音が溢れて極彩色にびかびかした がちゃがちゃの景色はたくさん目にうつるけど。
涙を誘うような演出はいらない。 ただ、たんたんと 流れていく時間を追って 手品の種明かしみたいにぜんぶを見せてくれるわけでもなくて わからないことがたくさんあって 不可解で
嘘みたいで、リアル。
このせかいから少しだけはみだしているような人たちが生きているさまを それをごく普通のことのように描いて、描いて、さいごまで描く、 そういう「お話」を、わたしは好きらしい。 奇妙なひとを奇妙に描くのではなくて ふつうの人の奇妙さをただふつうに描く、 そういうありかたを。
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あとで思えばここ数日わたしはすっかり「欝」だったようでした。 過ぎ去ってからわかる嵐のことは それは、皆目見当のつかない暗い場所で ただ不安定に平穏で、たいらな地面の上で それでもまっすぐに立つことができない気がした。 怖い気持ちと無気力さがないまぜになって何も色褪せてみえる。 きのうまで、まぶしかったことがらも、ぜんぶ。
義務と契約という言葉だけわたしを縛っている。
その綱をばっさりと切ったらむこうのせかいへふわっと そうだ、
ふわっと
両腕を広げておちていけると思っていた。 半分死んでいて半分生きているわたしは ただしずかな顔でどこまでもいけると思っていた。
この怖いことが満載の傍若無人なせかいでないところなら、 どこへでも。
まなほ
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