ひさしぶりに、外に出た。
ゆっくり、ゆっくり、パニックに陥らないように (それでもやっぱり最後には泣き言をいいかけたけど) 急き立てられても自分を消しちゃわないように 吐き気を抑えて、 自傷衝動も捩じ切って、 正気の仮面を被って、
やってくる。
六本木。 俳優座劇場。
はじめてここに来たときわたしは確か小学校の二年生くらいで そのときの演目は「フィガロの結婚」だった。 それから何度か、 そういえば、ともだちと来ておおよそ4時間近くも狭っこい座席に詰め込まれて 沖縄戦をタイトルに取った知り合いの卒業公演を見たこともある。
なんだかなつかしい。
劇場には、よく通った。 俳優座劇場もそうだけれど 新大久保にあるグローブ座にも、何度も行った。 シェイクスピアの演目は、ここでやるの。 円形の舞台をぐるりと囲む三階建ての客席で、 まるで本当に、昔ながらのイギリスの芝居小屋のつくりだから。 経営不振で今は劇場だけ残してからっぽになってしまったけど (ジャニーズが買い取った、なにをするんだろとわたしの大好きな役者さんが言っていた) わたしは あの木立に囲まれた小さな劇場がとても好きでした。
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演劇をすることはやっぱり仮面をかぶることに、似ていると、おもう。 舞台はやっぱり、夢なのだと、おもう。
十回たらず、踊るものとして舞台に立った。 衣装も、靴も、はじめてのものがひたすら嬉しかったときも 力のなさに苛まれて何もかもがぎこちなかったときも それから最初で最後の役をもらったときも。 トゥシューズをはいて、照りつける熱いスポットの中で 踊っていた。
おおよそ二十回くらいか。 演じるものとして舞台に立った。 12歳、、、、、、最初は、そんなに長く続けるつもりじゃなかったのに。 気がついたらもう手離すことができなくて、 いろんな無茶をやった。こころもずたぼろにした。 友達も切った。わたしも切られた。 それでも最後にはいつもいつも笑っていた。 カーテンコールのときはいつも、 笑っていた。
笑うことができなくなっても、わたしは捨てられなかった。 泥仕合みたいな無言のせめぎあいを続けながら練習を続けて、続けて、続けて、 呼吸困難になった。 声が出なくなった。 指から腕を無数に傷つけて 稽古場に向かう電車のなかでは必ず
それでも、
観るものにはなりたくなかった。
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中学校で入部して最初に迎えた公演で 台本はちっともおもしろくなかった。 夏休み中の公演で、暑くて、練習もきつくて でも一年生だから役なんてろくになくて スポットライトの快感はもうとうに知っていた、だからこそ 目の前で繰り返される「お話」がつまらなかった、生意気な12歳で。
そのリハーサルのときに、顧問の先生がわたしに言ったの。 最初のところ、代役お願い、って。
だからわたしは、無人の、 ひろいひろい体育館のステージの真ん中にぽつんと座って、 最初のせりふを言った。
「少女」
……体育館じゅうにひびいていったあのひとことの発声が たぶん、わたしをみごとに頭から食ったのだと思う。 舞台のなかに、ぱっくりと飲み込んで そうして生々しくて残酷だけどものすごくはげしいひかりみたいな歓びがある 夢を持たせてしまったのだと思う。
いちばんひどい喧嘩も いちばんはげしい涙も いちばんすてきな思いも いちばんだいじな友達も、ぜんぶ、 そこで出会った。
舞台の上。
二十歳。 ずたぼろになったわたしはその夢を手離した。 その頃につけた傷は今でも消えない。 左腕のあちこちで炎症の陰に隠れて白く残って息をひそめている。
だけど。
あのときの、あの、体育館中をじぶんにしたような あのふしぎな響きという、おそろしいくらいのこころよさは 今でも 気がつくと、わたしをひきずりまわしてやまない。
かえりたい。
ときどき思う。
かえれないまでも。
かえりたい。
とほうもない、ばかみたいな夢にまだ どっぷりと耳の中まで、浸かって。
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今日もまた、わたしはうっかりと夢をみてしまいました。 「いつか飛べるかもしれない」、 そんなふうなばかみたいなことばにかぎりなくそれは近くて そうしてどうしようもなく間近に迫ってくる、熱くて、まぶしくて、 カーテンコールのあと誘い出されたように出て行く外の世界をあっさりと霞ませるくらいに 鮮明な夢で。 それでいて、ひどく遠い夢で。
わたしは、圧倒的なその力の中でいつまでもたゆたっていたくて、 いくらでも押し寄せてくる夢のなかにいたくて だからいつも、黙ったままうつむいて、ことばすくなでいたいのに カーテンコールが終わるなりごうごうと降り落ちて来る 元のせかいに住む人たちの立てることばや顔立ちや家路に着こうと急ぐ帰り支度や 足取りやなにかのそのすべてが気に入らなくて まるで世界じゅうを敵にまわしたみたいな思いを押さえ込んで ふくらんではちきれそうになる自分をなだめあやしながら その人たちの最後の最後に、注意深く「その場所」を出て行く。 がんがんと傷む頭を抱えて。
わたし、というひとつの役を演じながら ふわふわと、人間のふりをしながら 後ろ髪を鷲掴みされて、それでも その夢はひとりでに勝手に、パチンとはじけて、終わってしまったから。 だから。
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世界は即ち劇場の舞台、人は男も女もひとりひとりが役者 生まれたときから自分の役をあいつとめては、死んでゆく、死んでゆく、
死んでゆく
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もしも。 来た道を逆にたどれば、いつでももとの場所に帰れると言うのなら それはほんとうにしあわせなことのように、わたしには思えます。 あるいは、穏やかなふしあわせのように
わたしには、思えます。
幕前と幕後では、姿かたちもまったく変えてしまうような、あやうい世界のどこかで なにか、きょうも、 熱に浮かされたみたいなぽっかりとした空間が いつも、わたしのあとをついてまわっているような そんな空想に耽りながら。
閉じられていないマンホールの穴は ふいに取り囲んでくるエアポケットは せかいじゅうのあちこちにあいている その周囲を、 ふらふらと歩きながら。
まなほ
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