『 hi da ma ri - ra se n 』


「 シンプルに生き死にしたかった 」


2002年07月19日(金) 泡のかけらのようなツブヤキをちらす。

曇り空とあおぞらと雨模様をまえぶれもなく幾とおりも今日はみた。
いちにちじゅう、おふとんをそばに抱えて、ぼんやりとしてた。

書くこと、とか
買うこと、とか
装うこと、とか
描くこと、とか

そういうじぶんにとってものすごく、ひとつひとつ、たいせつだったものが
ちいさく滲んでちぢこまって見えなくなってしまったみたいだった。

ガーゼのカバーにつつまれた夏用の肌がけはうすいみずいろをしていて
さいきん、かたときもそれを離さないでいることに思い当たったりした。

ライナスの毛布?

そのままじゃ。(笑)

仕事に行かなくちゃいけないのに朝お薬が残って目がさめなかったり
倦怠感でもうどうでもよくなっていたりして、行っていない。
たかがアルバイトだけど、でも、アルバイトだった。
職員さんはとてもやさしくて、わたしがいくら毎日遅刻しても
お休みを何度も続けても、いつも待っていてくれる。
精神科に通っていることも承知して、アレルギーが暴れることも承知して、
それでも、わたしを待っていてくれる。

わたしはめぐまれているんだな、と思う。

それでも外に出ていけないじぶんがかなしかった。

かなしかった。
NO.
くやしかった。
NO.
不甲斐なかった。
NO?
なさけなかった。

これくらいかな。

一日の過ぎていくのは早いような遅いようなで今週ももう終わる。
とどこおっているのは日常に必要なあらゆる事柄で
それがあんまり多岐にわたっているのでいちいち述べ立てていられない。
そのかわりに、せめてできることをしようと思う。

郵便ポストをのぞくとか、
庭のダリアが咲いたのを、写真にとるとか、
洗濯物をとりこむとか、
雨が降りこみそうな窓を閉めにゆくとか
剥がれ落ちてく皮膚で汚してしまった床をほうきで掃くとか、
そんな些細なことが
今のわたしが「がんばって」やりおおせることのできる
ささやかなことがらで
24歳、という年齢にくらべたらあんまりにちっぽけ。

でも、これでも、いっしょうけんめい、生きているんだよ。

じぶんに、言い聞かせながら暮らす。
消えたいきもちが強くならないように。
世界を
投げ捨てたいきもちが強くならないように。

みんなが、それぞれに
生きてゆくことを始めていく中で
ひとりだけ
なにもしないままココにいるのがこわかった。
なにも変わらずにいるのがこわかった。

なにかをはじめられたみんなを、進学したひとを、就職したひとを、
羨むというより妬むというより憎むというよりむしろ、
わたしは、おそれている。


ちくちくと縫い物をした小学生のときみたいに。
編み針をうごかした高校生のときみたいに。
今わたしはキーボードとマウスとタブレットという、とっても高価な玩具をもらって
ちくちくとなにかをかたちにしようとしている。

それしかできない、
それなら、できる。

それもできないときは水色のガーゼにくるまれたおふとんでじぶんを包んで、眠る。
傷だらけで痣だらけでごわごわのがさがさになってしまった皮膚も、もう、みえない。
安心して眠るには、まだすこし臆病さが勝つんだけれど、でもいつか
すこやかさに戻れたらいいなと思うときは、まだ、あるから、

だからわたしはだいじょうぶ。

だいじょうぶ。

だいじょうぶ。

そうやって自分に呪文をかけながら暮らす、眠る、目をさます。
食べ物を口に運ぶことができなくても、食べられるものをさがして
1センチ四方の、まだのこっている病気に壊されていないきれいに白い肌を
タカラモノみたいに救いにして
わたしは今日も
この時間まで
生きてる。


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