スケジュールの殆どを札幌〜神戸出張で埋める会長が、珍しくオフィスに顔を出した。 最近は殆ど週に一度来るか来ないか、部下たちとの以前の親密さも薄れつつある。 社長との確執は深まる一方で、誰もが口には出さないが、会長の辞任を予感する中 それでも日々届けられる彼宛の郵便物や書類の点検は、欠かす訳にはいかないので アタシがメールを出さなくとも、寄らざるを得なかったのだろうが…。
「おはようございます」『おはよう…』会長は心なしかやつれて見える。 他の人たちも挨拶はするが、皆目を背けるように、すぐ自分の仕事に戻ってしまう。 近頃ではメールの返事にジョークをまじえることも、全くなくなってしまった。 『めい子さん、悪いんだけどこれを経産省の秘書課に届けていただいて、その足で 厚生労働省の疾病課へ行って、これこれの書類をもらってきてくれますか』 「分かりました。じゃあ今すぐ行ってまいります」 アタシが会長から書類を受け取った時、折悪しく社長が入ってきた。 今日もまた違うサングラスをかけている。パッと見はどこのインテリヤクザ(▼_▼メ)
『あっどうも…』と小さく声をかける会長。目礼だけで無言の社長(+▼_▼) 見えない火花が散るのと同時に、アタシは何故か逃げるようにドアの外へ出た。 お使い先は目と鼻の先の霞ヶ関、しかも経済産業省と厚生労働省は隣り合っているので 毎回トコトコ歩いて行く。いずれも同じように門前で警備員に名刺を見せ通してもらい 同じように“特別警戒中”の看板が立った入口から、同じようなエレベーターホールの 赤く塗られた扉の前に辿り着いて、それぞれの目的の課へ向かう。 近所とは言え、二つの省をハシゴして用を済ませ戻った時には小一時間が経っていた。
「ただいま戻りました」と報告に行くと、会長は既に姿を消しており、そこには 代わりに社長がデンと座っていた。やば…なんかむっつりしてる(~_~;) 『…あのおっさん、何しに来てたの』 「(何しにって…) 郵便物がたまっているので、処理しにこられたのではと…」 あなたがたは、互いに意気投合した2人でこの会社を立ち上げたのではなかったのか。 『めい子さん、忙しいのに何を取りに行かされたの。ちょっと見せて』 『Hさん(会長)のスケジュール、今どうなってんの。見せてくれる』 言われたものを恐る恐る渡すと、社長はそれらを見比べながら『ふん』と苦笑し 『小樽に帯広か。大学の先生のとこばっかり行ってんなぁ…ったく』とぼやく。 一昨日の全体会議も、わざわざ会長が東京にいない日を選んで秘密裡に開かれ もちろん『会長には召集通知を出すな』と命じられたのであった。何もそこまで。
ヘッドハンティングした優秀な女性サイエンティストが、今月から事業部長として 一員に迎えられ、更に来月、新たに敏腕の役員が経営陣に加わることになるのだが つんぼ桟敷に置かれている会長は、そのいずれの人事に関してもあずかり知らぬまま。 のみならず、役員報酬ですら、会社設立当初の実に10分の1にまで減俸されている。 社長が多角展開を目論む事業計画においては、会長はいま完全に部外者の立場だ。 このまま行けば遠くない将来、H会長が社を去るのは火をみるより明らかである。
ビジネスの世界って、アタシなどが思うより遥かにシビアなものなのだろう。 しかし、そっとお茶を出すと『ありがとう』と寂しく微笑む、めっきり痩せこけた顔。 社長に気兼ねしてスーツケースを引きずりそそくさ退出する、かつての威風堂々の後ろ姿。 それらを思うと気の毒で胸の痛みを覚えつつ、かと言ってどうすることが出来るでもない。 飽くまでアタシは、一介のヒラ社員でしかないのであった。
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