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■ 「おやすみ」の前のひととき
=「おやすみ」の前のひととき=
ボクは、閉じていた目をゆっくり開く。もちろん、そこに広がる星は少なく、弱い。二、三粒のみ、死にかけの蛍のように浮かんでいる。体は芯まで凍えている。長くベンチに座り続けた体はこわばっている。忘れていた寒さが、不意に、はじけた。身震い。白い息を長く、遠くへと吐き出す。ようやくベンチを立つ。立ち上がると同時に膝からライターが落ち、ボクはその冷たく冷えたみすぼらしい百円ライターを手に取った。一瞬見つめるが、結局のところ今のボクに躊躇は生まれない。いつものとおり煙草に火をつけ、煙を吸い込むだけだ。そうして、ボクはゆっくりと歩き出す。固くなった関節を少しずつほぐしながら、登って来た坂道を下っていく。キャメルの葉の匂い。「煙草はもうやめる」きっとそんな約束は破棄されただろう。だいいち、ここは故郷の街から遠く離れすぎている。昔飼ってたみーちゃんは死んで、今はもう別の猫を飼っている。歩き煙草のまま、アスファルトの上を歩いていく。もし、目の前にどこでもドアとタイムマシーンがおいてあったらボクはあのころの故郷の街に戻るだろうか。角を曲がったところに巡回中の警官がいて、ボクはどきりとする。 「こんばんは。免許証か身分証明書見せてもらっても良いですか?」 「あ、はい。どうぞ」 「住所すぐそこですね。少し前ですが放火でぼや騒ぎがあったんで、気をつけてくださいね。では、メリークリスマス」 「わかりました。おつとめご苦労様です」 ボクは歩いていくうちに、だんだんと気分が良くなってきてしまう。お酒を飲んだわけでもないのに、ボクは鼻歌を歌い出す。冷たい風にやられていたいはずの耳が、熱くなってくる。きっと、そこにタイムマシーンもどこでもドアが落ちていてもボクは拾わないだろう。にまにま笑いたくなってくるのは、クリスマスのせいなんだろうか。静かな笑いが内側から、滲んでくる。ほんの、五年前にはボクはこんな笑い方はしなかっただろうな、と思う。でも、ボクは今あるものを犠牲にしてまでも昔に帰りたいとは思わない。鼻歌は同じ曲の同じ部分を繰り返している。アパートの階段をいつもの調子で登って、自分の部屋に滑り込む。ジャケットを脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴びる。火照った体のままベッドに潜り込もうとすると、足に何かが触れた。それがちっとも「猫でない」ことに気付くと、同時にサキちゃんがこのベッドで眠っていることを思い出した。慌てて布団から遠ざかろうとすると、中の手がボクを捕まえる。「どこ行ってたの?」その声が、猫の声でもサキちゃんの声でもなく、ユキの声だとわかるとボクは不思議と納得してしまう。「君が帰ってこないから、バイトのクリスマス会に行って来たんだよ。ユキこそ、昨日帰るって行ってなかったっけ?」「え? メール入ってなかった? 『帰りの飛行機が雪が凄くて出なかったから、二十五日の夜に帰ります』ってやつなんだけど。あれ? 遅れてなかったのかな」「なんだ。たぶんそうだろうと思ってたけど、心配してたよ」「クリスマス会行ってたのに?」「うん。クリスマス会で心配してたよ。あ、そういえば、ユキの妹っていくつだっけ?」「妹? 妹は一個下だから二十二だったはず。でもどうして?」「あ、いや、勘違いしてた。もっと子供なのかと思って、クリスマスプレゼントあげた方がいいのかな、なんて思ってたよ」「なんだ。あ、私疲れてるから眠るよ」「俺も眠るよ」「おやすみ」少しも眠くはなかったけれど、目は閉じた。そのうち、眠りはやってくる。
2005年05月03日(火)
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