流れる水の中に...雨音

 

 

命の器。 - 2005年10月21日(金)



宮本輝のエッセーに『命の器』というものがある。

このエッセーを私は最近になって知ったのだけれど
ここに書かれている事は まさに私の感じていた事そのものである。

 
 
運の悪い人は運の悪い人と出会ってつながりあっていく。やくざのもとにはやくざが集まり、へんくつな人はへんくつな人と親しんでいく。心根の清らかな人は心根の清らかな人と、山師は山師と出会い、そしてつながり合っていく。じつに不思議なことだと思う。”類は友を呼ぶ”ということわざが含んでいるものより、もっと奥深い法則が、人と人との出会いをつくりだしているとしか思えない。

どうしてあんな品の悪い、いやらしい男のもとに、あんな人の良さそうな美しい女が嫁いだのだろうと、首をかしげたくなるような夫婦がいる。しかし、そんなカップルをじっくり観察していると、やがて、ああ、なるほどと気づくときがくる。
彼と彼女は目に見えぬその人間としての基底部に、同じものを有しているのである。それは性癖であったり、仏教的な言葉を使えば、宿命とか宿業であったりする。それは事業家にも言える。伸びて行く人は、たとえどんなに仲がよくとも、知らず知らずのうちに落ちて行く人と疎遠になり、いつのまにか、自分と同じ伸びて行く人と交わっていく。不思議としか言いようがない。企んでそうなるのではなく、知らぬ間に、そのようになってしまうのである。抗っても抗っても、自分という人間の核を成すものを共有している人間としか結びつかない。その恐さ、その不思議さ。私は最近、やっとこの人間世界に存在する数ある法則のひとつに気づいた。「出会い」とは、決して偶然ではないのだ。でなければどうして「出会い」が、ひとりの人間の転機と成り得よう。私の言うことが嘘だと思う人は、自分と言う人間を徹底的に分析し、自分の妻を、あるいは自分の友人を、徹底的に分析してみるといい。「出会い」が断じて偶然ではなかったことに気づくだろう。





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