2006年02月09日(木) |
サンクチュアリからの脱出 |
その時私はあの冬の日に見た夕焼けを思い出した。真っ赤に燃える空、薄くのびる雲、肌を刺しかねない冷たい空気、そして灰色の髪の毛と熱い身体、それらはあの日の私の記憶の断片であり、私が初めて彼に背いた象徴でもあった。120円の缶入りココア、アイボリーの手袋をはめた私と、ひやりと刺激する彼の指先、その全ては不可抗力だと思ったけれどそれはきっととてもずるいことで、その私のずるさを見逃してしまう(それもわざと、知っているのにわざと)彼らの盲目さに少しだけ恐怖を覚えた。怖いことなのだな、と思った。
夕方の生徒会室はがらんとしていて薄気味悪いくらいだった。だから、そうだから、私は彼をこの部屋に通したし、どうせ1時間もすればお迎えが来るものだからとちょっとした油断でもあった。そんなことを頭の中で作り上げながら、私は息を一つ吐いた。そして、それがただの言い訳に過ぎないことも知っていたので、すごく後ろめたい気持ちになった。
「・・・離して」 「いやです」 「お願い、離して」 「だめだ、やっと捕まえたのに」 「いや」 「なら部屋に入れなきゃよかった、こうなること分かってたはずだ」 「・・・」
分かってたはずだった。生徒会は今日集まりがなくて、でも快適な生徒会室で放課後の時間をつぶせるのは生徒会長の特権かな、と、今日の夕ごはんのオムライスを作っている姿を頭の中でデモンストレーションしたり、片手間に仕事を少ししてみたり、そんなどうでもいいようなことをしながらお迎えを待っている私のところに彼が一人で会いに来た、なんて、これってまるで密会のようじゃないか。お迎えはまだ来ない。あと1時間はきっと来ない。
「好きです」 「・・・前にも聞いたわ」 「でも答えをもらってない」 「質問じゃないから、返すことはないと思って」 「じゃあ、聞きます、つぐみさん、俺のことどう思ってますか」 「どうって・・・」
(どうって、そんなの、決まっている)
私の身体はなまぬるかった。幼なじみの彼と小学校のころからずっと一緒で、二人の間をゆるゆると流れる時間や温度が心地よくてそれに身を任せていた。でも年が重なれば私たちはそのままでいられるわけがなくて、そんな名前のつけられない間柄は少し前に崩壊の兆しを見せた。見せたけれど、崩れたお城を片すのは意外に大変で無意味なことであったので、城跡はずっと残ったままだった。だから私たちはジーザス・クライストの生誕日やセント・ヴァレンタイン牧師の命日に燃え上がるような、そんな恋人ではなかった。出逢ったときから変わらないゆるゆるとした流れの中で手をつないでいる、そんな二つの生き物だった。(多分、きっと、私だけの勘違いなのかもしれないけれど) でも、彼は燃やす。私の身体に炎をともして、生きたまま燃やすのだ。あの冬の日、真っ赤な空の下で私は体温を上げた。触れたくちびるから火でもつけられたのかと思った。だって彼はそういうのが専門だと聞いたから。
「つぐみさん、はいココア」 「ありがとう、獄寺くんはいいの?」 「あ、俺はのどかわいてないですから!どーぞ」 「じゃあ今度は私が買うわ、何がいい?」 「いいんス!なんか、うれしくて多分飲めないし」 「ええ?なにそれ、ふふ」 「あの、偶然でも会えてうれしいッス、つぐみさんに」 「やだ、12月までは学校で会ってたじゃない結構」 「そうですけど、あ、つぐみさん、まつげ・・・」 「え、あ、(ン、)」
伸ばした彼の手は私の目より10センチは下のほうのほっぺたに触れて、私たちはごくごく自然にくちづけて、互いに頬を染めた。それは私たちの年齢に相応なものだった。でも私にはちょっと不似合いだと思った、主に、その清潔さにおいて。
「つぐみさん、こたえて」 「・・・帰って」 「いやです」 「ヒバリが来るの」 「今委員会ですよ、まだ平気だ」 「前のときだってひどいことになった」 「受けて立ちます、元々気に食わない奴なんだ」 「いや・・・」 「つぐみさん、」 「・・・後悔するわ、きっと」
ヒバリがこの空っぽの部屋と私との共存を許したのは、何故なんだろう。確かに今の今までここで何か(ヒバリが怒り狂うような、何か)が起こったことはなかったけれど、その根拠を私は知らない。例えば友達といたりだとか生徒会の活動をしていたりだとか、そんな時間を除いて決して私を一人にさせない彼が、何故この部屋には私を一人で置けるんだろうか。ヒバリなりの妥協なのか、それとも成長の証しか、それとも何だろう。彼は生徒会室を聖域とでも思っているのだろうか。何人たりとも侵せない聖なる地域、その中にいる私には誰も触れないのだ、お迎えに連れられるまで。でもそれは内側からは何とでも出来てしまう欠陥を持っているのだということを、私は知っている。そして、そんな私のこずるさを見逃すのはヒバリの常であるのだ、いつでも。
|