あなたは行ってしまう このぬるい空気に私ひとり残して
生活はただ黙々と過ぎる時間の集まりに過ぎない その中で流されていくことを生きるというならば私はそのことに何ら感情を抱けないだろう 花の彩りも火の熱さも雨に打たれる痛みも知らずにいたのだろう
だから、私は彼女に依って生きていたしてまず間違いはない 初めて見たときに湧き上がったものは色であり、熱であり、痛みだった それを知ることで私は初めて自分の生を自覚した 路傍に佇むスミレに気がついた ハードカバーの角を鋭さに指を痛めた 涙の塩辛さを味わった
生きるということは決して易しくはなく、笑ってばかりはいられなかった 苦悩し、削られ、やっと手に入れた生を手放したい衝動にも駆られた でも彼女は言うのだ
「貴方は前に仰いました、生きることをしらなかったのだと。 でも今貴方は生きていらっしゃいます、苦悩しながら、 その後に待つほんの少しの喜びのために。 素敵なことではありませんか」
生きることは素敵なのか、と考えた その答えは目の前で微笑む彼女の姿だった
私は人間に生を見出したのだ それはきっと、卑小な生き物である私の最高の快挙であった
だからだろう、私が今こんなふうに存在しているのは いや存在と言えないのかもしれない 私という人間を構成する全てがは徐々に無に近づいているのだから 彼女という器なしにこの定まりきらぬ液体はかたちを保ち得ない さらさらと流れてゆく時にまた、同化し持ってゆかれるのだ
「行かないで」、と云えなかったのは生を知ったばかりの私にはその感情を理解出来なかったからだろうか
そしてあなたは行ってしまう このぬるい空気に私ひとり残して 私がそれに融けてゆくことも知らないで
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