2018年06月24日(日) |
新平家物語クライマックスへ |
以前から読み進んでいる新平家物語(新潮社版)は全20巻の中で第16巻まで進みました。屋島の合戦で敗れた「平家」は彦島に辿り着き、最後の檀ノ浦の決戦もまじかとなりました。頭の整理のために少しまとめておきたいと思います。
1181年 2月 4日:平清盛死去(廟は福原)。 1183年 7月28日:倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が勝利・入京。平家は福原へ。 1184年 1月20日:源範頼・義経軍が義仲討伐。 1184年 2月 7日:一の谷(福原)の戦いで義経勝利。平家は屋島へ。 1185年 2月19日:屋島の戦いで義経軍が勝利。平家は船団で「彦島」に退去。 1185年 3月24日:壇ノ浦の戦いで義経軍が勝利。平家滅亡。
清盛死去から4年余りで平家は檀ノ浦の海で滅亡しました。「彦島・壇ノ浦」は山口県下関市にありますが幸運にも彦島に滞在する機会がありました。また壇之浦は地上からだけではなく海上からも南海も通過する機会がありました。また「屋島」は四国遍路の遍路道が通過しているため主な戦場を歩いて通る機会がありました。
彦島は本州の西端にあります。嘗て乗船していた海底ケーブル敷設船の年次ドックが彦島にある「三菱重工下関造船所」行われました。約一か月のドックの間は三菱重工様が準備してくれた「彦島荘」で暮らしました。平家が安徳天皇の行在所も含めて拠点をおいた「福良」は島の南側にあります。休日には下関市内は勿論ですが、彦島島内を散策する機会がありました。
島の中央付近にある彦島荘の近くの山頂には「清盛塚」だと言い伝えられ古い石碑がありました。そこから南側の福良の町並みが見渡せます。彦島拠点を築いた「平知盛」が「福原退去」の際に清盛の遺品を持ち出した可能性は十分考えられるところです。彦島は現在は下関市と橋でつながっていますが、当時は本土とは海峡で隔てられていたはずです。現在は「下関漁港閘門」が設置されていて日本海の瀬戸内海の水位を調整しています。平家船団は島の南側の「福良」を出発して海峡を北上して壇ノ浦で源氏軍を迎え撃ちました。
「壇ノ浦」は下関市の繁華街からそれ程遠くありません。高速道路の関門大橋の直ぐ東側です。その場所は海峡が一際狭くなっているため潮流の流れは大変早くなります。関門大橋の西側には安徳天皇・平家を祀る「赤間神宮」があります。乗船していた海底ケーブル敷設線は何度か関門大橋を下を通過しました。沢山の興味深い場所のある下関です。
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