ゼロの視点
DiaryINDEXpastwill


2007年07月22日(日) 感覚

 日本に住んでいた時も、今、こっちで暮らしていても、私はいつも映画が好き。かなり若い頃から、カルト映画から何から、色々と凝りまくって鑑賞してきていたりもする。それと並行するように、フランス文学だの現代思想だのをかじりはじめたのが、今思い起こせば、こっ恥ずかしいわたしの青春時代ともいえる・・・・(汗)。文字通り、本当に《青い春》でしかなく・・・・・、あーーあ。

 そんなことから、ヌーヴェルヴァーグだのなんだのと、フランス映画鑑賞ストックは、日本で普通に暮らしている時点でかなりあるし、ソレに基づく、映画評論だの似非評論だの、さらにはその映画背景にいたる原点探しなども、それなりにチェックしていた。

 が、場所と言語と文化をすべて視点を変えて、あらためて同じ映画を見直してみるとどうなるか・・・・・・?!?!?!?!。

 ま、簡単にいえば、フランス映画などにもちょっとだけ詳しかったとある日本人が、98年からフランスに住み始め、最近になって昔鑑賞した映画を色々とみなおしてみると、あーら不思議、あんなにウルトラ有名な評論家から、マニアックなあんな人こんな人までが、難解だとか、シュールだとか、婉曲的な言葉を駆使して、さらに難解な評論などで絶賛されていたはずの映画が、本当にどうでもいいものだったりするから面白い。

 その上、自分自身の変化、つまりはもう青春じゃなくなって、さすがに40歳になったりすると、考え方の違いなどが、前述の視点の変化にさらに激しく拍車をかけるから、笑える。

 たとえば、映画《冒険者たち・Robert Enrico監督/(原題 Les Aventuriers/1967)》などは、昔は喜んで何度も見ていたのに、昨年15年ぶりくらいにこの映画をみたら、ほとんど感動もなにもできずに、そのことに可笑しくなってしまった。よく考えてみれば、この映画をみたのは、フランスで生活しはじめてから始めてのことで、ゆえに、日本語字幕なし、フランス語オンリーで鑑賞したことになるのだが、それが、余計、興ざめにさせたところでもあると思っている。

 とにかく、ユーモアもあまり私には感じられなかったし、突っ込みどころも満載すぎて、かえって突っ込むのさへ面倒くさくなり、最後にアラン・ドロンが犬死していくのを、あーーあ、だからいったこっちゃない、的に、しらけてみている、わ・た・し。ま、私がばばあになっただけなのかもしれないが(滝汗)、それにしても、なぜあそこまでこの映画が賛美され、わたしもその賛美者だったのかが、全くわからなくなった。

 お次は、映画《気狂いピエロ・Jean-Luc Godard監督/(原題Pierrot Le Fou/1965)》。これは、たまたま友人がうちにこの映画のDVDを置いていったのがきっかけで、暇つぶしに1年前に、同じく15年ぶりくらいに鑑賞してみた。

 アンナ・カリーナが途中で歌う、あの有名な「Ma ligne de chance(私の運命線)」は、なんてシュールとか、なんてアヴァンギャルドなとか、なんて難解な・・・・・・・、などと色々と評価をうけていたはずの歌詞でもあったのを、見終わってから思い出し、思わずネットで日本語検索してしまったほど。

 なぜ、見終わってからしか気がつかなかったのか・・・?、といえば、この歌を聞いている最中、あまりにもバカらしく(いい意味で)、くだらない男と女の溝を端的に言葉遊びで表現されていたので、大爆笑してしまっていたから・・・。難解というイメージから程遠いほど、あまりにも日常的で、切ないほどにわかりあえない男と女が、折り合いをつけられないながらも、延々と乳繰り合っている・・・・、という感じ(笑)。

 ♀が《私の運命線(ligne)が短いのよ〜》と、ちょっと甘え悲しみながら、自分語りを中心とした会話がしたい。ところが♂の方は、《おいらは、きみのヒップのライン(ligne)のほうがいいねえ、うひょひょ〜♪》と、身体を中心とした会話から肉弾戦に進みたいわけであり、そこに♀が訴える《わたしのことをわかって・・・》というSOSなど、まるで♂の耳には到達していない様子がうかがえる。

 まるで、喫茶店などでたまたま隣に座ったカップルが、喧嘩に発展するか否かのギリギリラインで、会話しているのを、《他人の不幸は蜜の味》的に盗み聞きしている楽しさ〜♪。

 これ以外にも、かなーーり爆笑できる男と女の会話が多々あり、これって極上のコメディー映画だったんだっけ?!?!?!?、と思ったほど。

  立場をかえて、今度は日本文化などを理解するのに、日々頑張っている仏人の場合・・・・。たとえば、《古池や蛙飛こむ水のおと》という芭蕉の俳句について。そして、これを理解するのは大変難しく、この短い一句の中に、日本を解く鍵がある・・・、なんて説明をそのまま真に受けて、一生わからないかもしれないが、すばらしいものとして、この句を暗唱していたりする人が結構いたりする。

 感覚というのをゲットすることと、頭で理解するということの違いが、あらためてわかったような気がした。異文化の《現地感覚》をいかに、それを知らない相手に伝えられるか・・・?、ううーん、非常に興味深い課題である。

参考までに、「Ma ligne de chance(私の運命線)」の歌詞をどうぞ〜。

Moi j'ai une toute petite ligne de chance
Moi j'ai une toute petite ligne de chance
Si peu de chance dans la main
Ça me fait peur du lendemain

Ma ligne de chance, ma ligne de chance
Dis-moi chéri qu'est-ce que t'en penses ?
Ce que je pense, quelle importance ?
C'est fou ce que j'aime ta ligne de hanche

Ta ligne de hanche, ma ligne de chance
J'aime la caresser de mes mains
Ta ligne de hanche, ma ligne de chance
C'est une fleur dans mon jardin

Mais regarde ma petite ligne de chance
Mais regarde ma petite ligne de chance
Regarde ce tout petit destin
Si petit au creux de ma main

Ma ligne de chance, ma ligne de chance
Dis-moi chéri qu'est-ce que t'en penses ?
Ce que je pense, quelle importance ?
Tais-toi et donne moi ta main

Ta ligne de hanche, ma ligne de chance
C'est un oiseau dans le matin
Ta ligne de hanche, ma ligne de chance
L'oiseau frivole de nos destins

Quand même une si petite ligne de chance
Quand même une si petite ligne de chance...
Une si petite ligne c'est moins que rien
A peine un petit point dans la main

Ma ligne de chance, ma ligne de chance
Dis-moi chéri qu'est-ce que t'en penses ?
Ce que je pense, quelle importance ?
Je suis fou de joie tous les matins

Ta ligne de hanche, ma ligne de chance
un oiseau chante dans mes mains
Ta ligne de chance, ma ligne de hanche
c'est l'oiseau vole de nos destins.


Zero |BBSHomePage

My追加