ゼロの視点
DiaryINDEXpastwill


2004年05月19日(水) 11年前の私

 昨日の日記で、医師からの質問『今日は何日ですか?』というのに対して、きちんと5月18日火曜日と答えられた母だったが、2004年のところは思いっきり1993年と答えたと書いた私。

 確かに、ギョッとする答えだったのは確かだったが、なぜに1993年なのか?、というのを知りたくなった。



 さて、母は時々私に向かって、“うちの小さいゼロはどこ?”“私の子供のゼロはどこ?”等と尋ねてくる。ま、たいていこういうことを尋ねてくるときは、母の頭があっちの世界へ行っている時。まだ、一日のうちごく稀だからいいものの、これが常にとなると、完全な痴呆の世界へようこそっ、となるのだろう。

 で、母があっちの世界へ旅立っている最中は、あまり抵抗しないほうがよいというのをここ数日で少し学んだので、今までだったら“わしがゼロじゃ、ボケっ!!”とかムキになって言い返していたところを、本日は他人になりすまして母に“あなたのゼロってのはどんな人?”とインタビューしてみた。

 母は嬉々としてして“私の子供のゼロ”について語り始めた。そしてそれを一字一句間違えずにノートにメモする私。

(1)うちにいる女の子(30歳まではいってないと付け足す)

(2)性格はいい時と悪い時があるが、基本的にキツイ

(3)小遣いが欲しい時だけ声が変わり、「ねえ、ねえ、おかーさん、お金貸しえー」と平気で言える甘ったれ

(4)会社のクルマを使って、あっちこっち走り回っている(取材のこと)。

(5)親と一緒に住んでいる。なぜならお金がないからだと思うし、親と離れられないのよ、あの子

(6)背が高いくせに、ヒールの高い靴が好き

(7)家に帰ってくると、「お腹すいた、何か食べるものある?」と聞いてくる

(8)まだ結婚してない。あんな自分勝手な子は誰ももらってくれないはず


ま、こんな感じだった。
ひえーーっ。


(4)の彼女のこたえに基づいて、私の以前働いていた会社名を尋ねると、彼女は見事にそれを言い当てる。そしてそこから、彼女の語る“私の子供のゼロ”というのが1993年頃だということが判明。

 確かに、あの当時は会社に行くとき、最寄り駅まで朝晩母にクルマで送り迎えしてもらい、基本的には実家暮らしだった。愛犬マルチンもすこぶる元気で庭をかけまわり、かわいい悪戯をして、母は充実した生活をしていたのだと想像できる。

 残業だの、出張だの、遊びなどで、ちょくちょく外泊はあったものの、それでも、母にとっての私は、まだそれほど遠い存在ではなく、まだまだ子供で、面倒をみる甲斐があったのだろう。

 逆に私にとっての1993年ごろは、最悪だった。会社勤めも嫌だし、だからといって経験もなし。鼻っ柱だけは強くとも人生はうまくいかない。ま、典型的な荒れた青春時代の延長ってところでしょうか(汗)。

 ああ、親子間でのギャップの激しきことよ・・・・。

 1994年まではそれでも、実家にいた私だったが、1995年からはとうとう実家を離れ、別のところで暮らしだした私(といっても都内で、母がよく出没する病院のすぐ近く)。一度、1997年に10ヶ月ほど実家をベースにしたことはあったものの、それ以後はフランスへ来てしまっている私ゆえ、母の最良時の記憶が1993年あたりに留まっているのは理解できる。


 (5)の回答には、ちょっと怖くなった。“あの子は親から離れられないのよ”と嬉しそうに語る母・・・・。あの当時の母には、そんな確信があったのだろう。共依存体質そのもの。ゆえに、親の金も借りずに海外へ行ってしまい、そのまま外国に住み着いて、外国語もそれなりに習得して、たくましくなっていく娘に対して、どこかで裏切られたという感じを母は抱き続けているとも推測される。

 だからこそ、愛犬マルチンの死を受け入れられないと同時に、私の巣立ちも未だ心の底では全く受け入れられない母。“私がいないとダメ”と思っていた存在が、皆彼女の元から去ってしまったわけなのだから・・・・。

 
 このインタビューのあと、母は幸いにも、この11年の“時差”に自ら気づいた。で、二人で色々と話し合ってみた。母は“やっぱり私はどこかでゼロの成長を受け入れられないのかしらねぇ・・・”と、妙に寂しそうな口調でもらす。

 
 私の夫は、過干渉な自分の母親から離れるために、外国語に堪能になったと、自分の精神分析医との間で、その理由を発見している。その時は、そりゃあ、あのばばあから逃げるには、そのくらいのことまでしなければならないものなあ・・・、と、夫のことをつい爆笑してしまったのだが、実は人のことを笑ってられない私だった(汗)。

 日記まで平気で盗み見ようとするような母に対して、夫は英語だの、中国語だのを利用して、母には解読不可能な日記を書く、というわけだ。そして、フランス語圏以外の友人を徐々に増やしていき、母親には干渉させない方法を、知らず知らずにとってきていたともいえる。



 コントロールしきれない子供を育ててしまった親の不幸か、それともコントロールしたがる独占欲の強い親をもってしまった子の不幸か・・・?。


 
 しかし、コントロールするという考え自体を放棄した瞬間から、そこには不幸じゃなくて、幸せだけが育ちはじめると考える私なのだが、いかがなものだろうか?。


Zero |BBSHomePage

My追加