ゼロの視点
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2004年05月20日(木) クイール

 昨日の午後はまず役所へ出向き、介護保険の申請の仕方、およびその仕組みについての説明などを聞いてきた。あらかじめ日本に来るまでに調べこんでいたものの、どうしてもわからぬこともあり、係員に矢継ぎ早に質問。

 また介護申請したあとで、要介護以上の判定をもらえば色々とサービスを受けられるが、もし自立と判定された場合の可能性なども念入りに質問。

 というのは、母の場合、身体はすこぶる丈夫。そしてまだらボケなので、大丈夫な時は、本当にこの人のどこがボケているのか?、という感じになってしまい、介護認定をするために役所から送られてきた調査員相手に、自立の判定を下されてしまう確率がかなり濃厚だから、だ。

 しかし、私としてはデイケアのようなサービスを、母が受けることができるのなら、それを獲得したいのが本音。もし要介護と認定されても、そののち自立と判定されるまで回復するなら、それはそれで素晴らしい。

 来週の月曜日に、もう一度かかりつけの病院へ出向いて、今度は脳外科部長から色々と説明を受ける予定になっているが、その説明次第で、すぐに申請ができるようにあらかじめ準備だけはしておきたかった。

 極力、今回の実家滞在を延長させるつもりでいる私とはいえ、母がこのまま閉じていく一方なら、こういった手段を使わなくてはならない。


 ドウ転ぶのか?、ま、それは最終的に母次第なのだが・・・。


 通常、申請してから結果がでるまで一ヶ月。が、私には時間がないので、事情を説明すると、役所側も考慮してくれると申し出てくれた。なので一安心。これでいざ申請するとなったら、手続きは早く済みそうだ。


 その後、役所近所の映画館でまだ上映されている日本映画『クイール』を、母を連れて観にいく。

 一匹の盲導犬・クイールの感動的な人生を描いたもので、前評判や宣伝では“涙なくしては見られない映画”と言われていた。

 犬の死がテーマの映画を母がどう受け止めるのか?、というのが私の目的。それと同時に、リスクもあるのだが・・・。でも、あらかじめ映画のあらすじを母に説明したら、自ら“観たい”というので、一緒に行くことにしたというわけ。

 最初は自分の体験が、映画によりフラッシュバックを招き、母が号泣しはじめたらどうしようと思っていたが、実際には、周りの観客がみんなゴーゴーと泣いているのに対して、私達親子だけが泣いていなかったという状況。ちょっと笑ってしまった。

 とはいえ、きっと何か確実に母の心の底では何かが響いていると想像して、とりあえず映画のパンフレットを購入しておいた。あとで時間がある時に読み返して、一人で思い出す作業もできるかな?、という理由にて。

 のちに、パンフレットにたくさん掲載されている、犬の写真を見ては、目を細め、満面の笑みで“かわいい、かわいい”という言葉を連発させている母だったが、それはそれ。彼女が常に探しているのは、“自分が失った愛犬・マルチン”でしかなかった。ま、当たり前なのだが。



 それにしても、母は、おそらくマルチンを失ってから、思い切って泣いたりしていないと思われる。

 いつもそうなのだ、母は・・・・。マルチンを想っては、涙がこぼれるということは数え切れないほどあっただろうが、悲しみを吐き出すような泣き方をした母というものを、私は一度も目にした事がない。

 父の死を通しても彼女は泣いていないのと同じように・・・・。



 ボーっとしているふりをしながら、家事をしている母のうしろ姿を眺める。その以前より小さくなった彼女の身体のなかに、どれほど未消化の悲しみが蓄積されているのか・・、と想像すると、こっちのほうがキツイ。



 吐き出す術をあえてブロックしているのか?。
 
 それともソレができないのか?。


 
 私としては、いつか母がボロボロとその悲しみを解放することができる日が来ることを祈ってやまないが、かといって、彼女なりに悲しみを和らげるために、あえてまだらボケの世界に突入することを選らぶのなら、そこから無理に引き出すのも考えものかもしれない、と思うこともある。

 里帰り中は、私なりに母を連れ出し、彼女を刺激することは決してやめないが、その過程中にもし彼女が何も自分のやりがいを発見できなかったら、それはそれでしょうがないのだ。

 一緒に行動することにおいて、またこうして母をもっと知ろうとすることによって、すでにそこから新しい私と母の関係が始まっているのだろうから。
 


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