ゼロの視点
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2004年04月11日(日) キリストの受難

 世はイースターの休日。クリスチャンの多くは、本日教会へ足を運び、キリストの復活を祝うことになっている。

 さて、我が家のクリスチャンであると同時に、アンチ・クリスチャンでもある夫とは、数日前からとある議論で対立していた。どんな議論か・・・、といえば、メル・ギブソンの映画『パッション(la Passion du Christ)』を観るか否か、ということ。

 カトリック信者のことを忌み嫌っていたはずの夫だったが、先日、私がこの映画を観に行こうと彼に誘いをかけると、突然意見を翻し“嫌だ・・・”と言い始めた。

 映画のほとんどが、キリストが拷問を受けているシーンばかりだという記事を何度も目にして、突然嫌になったらしい。とはいえ、これぞキリスト教のキリスト教たる由縁でもあるわけで、何故それから眼をそむけようとするのだ、我が夫・・・・?、という感じで私にとっては晴天の霹靂だった。

 夫曰く、映画を観ているうちに、自分がキリストのようになってしまい、自分が現在本当に鞭打たれているように感じるのが嫌だと言う・・・。

 ああ、いつもそうだ、我が夫よ・・・。この人は、映画をみていると、あっという間に主人公に入り込んでしまうのだ。おまけに、アンチ・クリスチャンといいながら、神父ばかりの学校で幼少期から青年期まで、バリバリのカトリック教育を受けてきている。

 確かに、熱心なカトリック信者からすれば、夫はカトリックを馬鹿にしているし、信仰心など全く持っていないように思われることだろう。が、カトリック信者でない私からみると、それでも、夫はカトリック信者に見えたりするものだが、やはり・・・・・。

 そこには、キリストという人物が苦しめらているシーンを直視したくない・・・、という概念がありそうだ。

 さて、ここまで観たくないという人がいると、逆にどうしてもこの人間を映画館に引っ張っていきたくなるのが私の性格。特に、拷問のシーンの最中、私の隣の夫がどんな顔をしているのか・・・等、観察したくてしょうがなくなった。

 そして、日曜日の昼下がりに一本の電話が鳴った。電話に出ると、友人のJだった。映画に行こうとの誘いだったので、すぐさまこの映画を観に行こうと提案してみると、彼女はOK。ただ、彼女と一緒にやってくるTはこの映画を観たくないという。しかし、Jがそれで嬉しいなら、“ボクは一緒に行ってあげようと思う”と延べる・・・・。

 さあ、どうする、我が夫よ・・・・。

 結局、Tの勇気ある発言に、夫も腹を決めざるをえず、4人で映画館に出かけることになった。



 ああ、神は私を見放さなかった(←どんな神だかしらんが・・・)。


 映画は、記事であらかじめ読んでいたとおり、本当に拷問シーンのオンパレード。歴史的なサド・マゾ映画とも言える。なんの抵抗もせず、鞭に打たれ続けるキリストの姿は、時にイライラしてくるほど。

 ピラトやユダヤ教の人々がキリストに「あなたは何者」と問うたびに、キリストは「私は神の子です」と答えつづけるゆえ、強烈な拷問にかけられていくキリスト。この時、もしキリストが適当に場を丸く収める答えをしていたら、どうだったのだろう・・・・?。

 ゴルゴダの丘を十字架を背負わされて登っていくキリストを、ローマ人が狂ったように鞭打っていく。で、そのたびにフラフラして倒れるキリスト。そして、それを見て、フラフラしている我が夫。

 ついでに周りの観客の様子もウオッチしてみると、おおくの人が“ああ、可哀想なキリスト様・・・”ってな表情をしている。ハンカチで目を覆っている人も何人かいる。

 思うに、キリスト教信者としては、こういった生々しいシーンを見ることで、自分達の罪悪感が激しく刺激されるのだろう。『私たちのために犠牲になってくださったキリスト様』と言うことは簡単だが、こうして犠牲になったのだ・・・、と延々とそのシーンを見なければならない信者。

 観客はトラウマの原点に立たされるゆえ、この映画を観たくないという人がたくさんいてもおかしくないな・・・、と妙に映画を観ながら納得した。


 映画館を出た後は、4人でレストランで熱い議論。家に帰ると、夫はさっそく『イエス・キリストの生涯』等という本を取り出してきて、読み耽っていた・・・。

 今、こんな本を読んでいる夫だが、きっと次にブッダが虐殺される映画とかを観たら、ブッタになりきって、家にもどってきたらすぐ『ブッタの生涯』などを読み始めることだろう。


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