だから猫が飼いたいのに・・

2007年08月14日(火) 喪男の哲学から信仰と占いまで

「喪男の哲学」を読み進み、この本に書かれているキルケゴールとかニーチェなど過去の哲学者やが神について語ったことは、すごく納得できるな〜と思いました。
前の日記にちょっと書いたように、「○○に萌えれば萌える程、○○に萌えない人を打ち倒したくなってしまう、という悪循環にハマった」というようなことです。
先駆者は常に、集団を嫌っているのに、いつのまにか自分がそのカリスマに持ち上げられてしまい、皮肉な結果になってるという部分です。

ところで、私は祖母の信仰にしたがって特定の宗教の信者ではあります。
が、自分でも本当に信者なのか?と時々疑います。
それは、ほとんど宗教活動らしきものをしていないからです。
それでも、その宗教には「それもまあいいじゃないか」という雰囲気が漂っています。
私にとっての、その宗教の良さは「押し付け」がないということでありました。

ただし、私の周辺だけで、私の知らないところでトンデモナイ人がイケてないことをやってる可能性はあるんですが・・
ある特定の人を集団のサンプルにしてしまうのは愚かしいことです。
それはある国の人を一人しか知らないのに、その人をその国のイメージに限定してしまうことですよね。

そんなイメージの恐ろしさを書いておきながら、私の宗教に対するイメージもステレオタイプでお粗末です。
例えば、どんなに寒くても暑くても苦行のように布教してまわる。
どんなに迷惑がられても、いかにこの教えがすばらしいかをひたすら説く。
困っている人に、この宗教に入れば助かると入信を薦める。
この宗教に入ったら、奇跡的に難を逃れたことを売りにする。
といったところでしょうか。

そんな私ですが、祖母の入信した経緯はとても自然で、それまでの宗教のイメージと一線を画しています。
祖母はとても困難な状況に置かれているときに、近所の人で、同じように困難な状況に置かれているのに
いつもほがらかで、楽しそうにくらしている人を知っていて、ある日、その理由を尋ねたら
その信仰のおかげだ〜ということを教えてもらったそうなのです。
そして、その宗教は「どんな教えなんですか?」と尋ねられたら
「どうぞ私をみてください」ということだそうです。

ある意味、究極に理想の世界です。
私ももし、そういう質問されたら、そう答えたい。
しかし、私は質問もされないし、未だ「私を見て!」などとはよういいませんでしょう。

そして美輪明宏さんの本を読んでいたら「信仰と宗教は別物」と書いていました。
その時も、私はなるほど〜っとものすごく納得したのです。

+++

集団になり、何かに価値をもたせる行動になると、それはもう自分と神様との対話とはズレが生じます。
神様の教えを忠実に守るよりも、人間社会のルールやしがらみに身動きがとれなくなるのです。
実際、祖母の信仰している宗教内でも集団になれば、それはそれでいろんなルールがあって
つい「それって人間が勝手に考えたんだしぃ〜神様はそんなことこだわらないと思うよ〜」とつい思ってしまうのです。
そんな私は、ある特定の宗教の信者でありながら、どこかその宗教の集団には属せない半端ものなのでしょう。

この世の現実と折り合えない部分、葛藤などが生じたときはどうするか。神に代わるものはあるのか。
キルケゴールもニーチェもその答えを明確にできないままだったそうです。
「信仰とは人間個人が自分を救うためのものだ」と語った人物なのにです。

自分の中の良心、プライド、心地よいもの、美しいと思えるもの、それを裏切らないように生きること。
私が信じている宗教の神様がすすめる生き方は、私が理想とする生き方そのものです。
私はまだ未熟でいたらないので、その行動をするのには全然程遠いのですが
間違いそうになったり、おかしくなったときに、ニュートラルに戻れるというのはやはり信仰があるからだと思います。

それに、神様が「やるといいよ」という事が全て出来ていたら
宗教に入る必要はないかもしれません。
神様が必要だから、こその宗教・信仰活動なのでしょうから。

世の中には集団の中で、自分を高めていける人もいれば、
個人で自分を高める努力をするのが向く人もいます。
私は後者なのでしょう。

+++

でも、徹頭徹尾個人なのではありません。
私は祖母、母、私と3代目なのですから。
祖母が種を植えて、それが着実に育ち、次世代へ受け継いでいるのです。
初代でできなかったことが、二代目では頑張ってやれるようになり、三代目では簡単に出来たりするのです。

前人未到のことをやるのは大変ですが、周囲で、親しい人がやってることは当たり前のようにできるのですから。
つまり、祖母の代から、「よりよく、楽しく、生きていく」ことを心がけている家庭に生まれた私はとても恵まれていたのです。
だからこそ、集団の中にはいって頑張らなくてもすんでいるのでしょう。

でも、それもキルケゴールやニーチェには救いにならないのかな〜
私は何に救われているのでしょうか。我ながら不思議です。

デカルト、ダンテ、ゲーテのようにやはり萌えの世界に行っているからなのかとも思う。
現実の世界で、モテない、あるいは理想の男性が現れないから、二次元に行くという図式ですね。
しかし、完全にその世界に行ってしまってるわけではないし、ちょっと中途半端。
女の身ではちょっと難しいのかな〜?

しかしうすうす思っているのは、セルフコントロールの世界かもしれません。
私は私が思うような自分であり、行動したりできたときに喜べます。
それはすごく些細なことでかなくてもです。
朝6時に起きれて、ゆっくり音楽を聴きながら読書をする。
新しいジャンルを知ること。
自分がしたことで、他人に喜んでもらえること。

自分と他者との共存、そしてバランス。
これがうまくいくととても気持ちがいい。
これは、二次元の世界に行ってしまったきりではできないことです。
これは、ステレオタイプで申し訳ないけど、おしゃべり好きな女性のが有利かもしれません。
でも、もしかしてこれって「俺萌え」なんでしょうかね〜

続く


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