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執事おどろく。 | 2005年07月16日(土) |
ベルトランはその瞬間、自分の目が落ちないのが不思議だと思うほどにかっと目を見開いてその場に立ち尽くした。 「…………」 ぐつぐつことこと、とんとん。 妙に郷愁をかき立てる音に、更に彼の心は動揺した。 滅多に出ない冷や汗が額をつうと撫で、鋼の平常心を誇っていた心臓は今やばくばくびくびくと不整脈を起こしかけている。その上ひゃっくりが出そうになって咄嗟に口を押さえた。 これはこのまま立ち去るべきか、と踵を返しかけたところで問題の人物がくるりとこちらを振り向いた。 「……何だ、ベルトランか」 「…………えぇと、その、だ、旦那さま……?」 声の乱れを何とか抑えようと試みたが、最後の最後で母音がひっくり返ってしまった。 嗚呼、と天を仰ぎかけた彼は、くすりと笑うロジェの視線を受けて凍りついた。 「何に怯えているのかは知らぬが、用があるならさっさと済ませて貰おうか。料理の邪魔になる」 「いや、その。朝食を作らなくてはと思いまし、て」 五年振りの仕事に、寝坊してしまったのは執事としては最大級の失態だった。 ふむ、と彼の主はひとつ頷いてくるりと厨房に向き直る。 野菜を刻む仕草は慣れたもので、どうみても主夫のそれだった。 「ここのところ、朝に料理をしないと落ち着かぬのでな」 「……」 「どうも最近楽しくて困る。この調味料の微妙な匙加減のひとつで味が大分変わるのは非常に興味深い。あいつもあいつで舌が肥えているのかすぐに見破るあたり、食わせ甲斐がある娘だとは思わぬか?」 くくく、と笑う様子は悪役そのものだが、服装が服装なので格好がついていないとベルトランの思考はおかしな方向に逃げた。 そう、その前掛けは何と言うのだったか。 「……」 「だから気にせず寝ているが良い。もしくはニネットの水遣りでも手伝って来るのだな」 思い出すのを拒んでいるのか、それともあまりの衝撃に記憶の貯蔵庫が一部吹き飛んだか。 意を決して彼は主人に問いかけることにした。 「その、旦那さま」 「何だ?」 「お召しになっているその前掛けは何処で手に入れられたのでしょうか?」 真白いその裾を掴み上げ、彼は何処だったかなと呟いた。 「そう、確か私が料理に凝っていると勘違いしたジェルメルーヌがいつだか持ってきたものだな。遥か東の人間が料理をするときに着るものだとか。これなら胴だけでなく袖も汚れぬし中々重宝している。便利なものだな、」 前に落ちかけてきた揃いの三角巾を縛り直しながら、彼はトドメの一言を放った。 「この、割烹着というものは」 ****** ロジェおっかさん疑惑。 |