祖母の葬式

去年祖母が急死した。
肺結核だった。
気づいたときにはもう、危ない状態だったそうだ。
祖母はそのころ、頬がぴりぴりするという、原因不明の病気にかかっていて、神経症という形で通院していたが、内弁慶で外では気弱な祖母は、肺の症状も感じつつ、言えないでいたらしい。

 殺しても、しなないような気丈な人で、皆、こんな事になろうとは思いもしなかった。
親戚の非難の対象になったのは、同居していた叔母だった。
「なんでここまでなるまで気づいてやれん!?」
「もっとはやく病院にいっていれば・・・」
無責任な人達が、無遠慮にわめく。
三人姉妹の母達は、交代で夜もろくに眠らず、看病していた。
同居していた叔母は仕事を休んで付っきりだった。
そんな叔母たちや、母に、何故そんなことが言えるのか、信じられない。親戚達は1、2度見舞いに来ただけである。
祖母の姉妹ですらそうだった。

 葬式の時も、喪主である叔母は忙しく動き回り、しきたりだとか、料理の注文だとかに無責任に難癖つけて、「こんな葬式は恥だ!」などとのたまう奴と衝突したりもした。

 通夜の夜、叔母は疲れきったように言った。
「最期のお別れで、おかぁちゃんのそばにいてやりたいのに、忙しくて、全然いてやられへん」
と。
祖母のそばに一番いたいのは叔母だろう。
親戚達はそれなりに悲しんではいるものの、見たこともない遠い親戚達は遺影の前で暇そうに、くだらない話をして、声を上げて笑っていた。
私はそいつの髪をつかんで、外に引きずりだしてやりたい衝動にかられて、おさえた。

 お葬式は、叔母と私の誕生日(同じ日なのだ)にとりおこなった。
焼香のときも、初孫の私の名は読み上げられず、見たこともない親戚はちゃんと呼ばれていた。
 私のうちは親が昔、離婚していて、母が再婚を控えていたりとごちゃごちゃしていたのだが、私はもしかして、親戚達に認められていない子供なのだろうかと、とても不安で悲しくなった。「おばぁちゃんに最期の別れもさせてくれないのだろうか」と。
 仕方なく一般焼香に同じく名前を呼ばれなかった母の再婚相手と並んだ。
 しかし、叔父(叔母の昔の旦那。離婚しているのに、手伝いに来てくれていた。)に、「お前も親族焼香の台で焼香して来い」と促され、行った。焼香台まで行く時に、知らない親族達は、名前も呼ばれていないのに勝手に焼香しようとする私を不思議そうにみていた。彼らは私が祖母の初孫だということも知らないようだった。
 後で話を聞くと、「恥だ!」とのたまった親戚が、焼香順を決める時もひっかきまわして、めちゃくちゃになってしまったらしい。「この人は○○だから(その人の地位)先よばないかんやろ!」とか、くだらないことを好き放題言いまくって、結果、初孫の名を忘れるわ、母の名字を再婚相手の名字で呼んでいるのに、その再婚相手本人は呼ばれないわで、散々だった。
 それを聞いて、悲しみが怒りに変わり、祖母とのお別れの時なのに、どうしてこんなくだらないことで争ったり、ののしりあったりしなくてはならないのだろうと、また悲しくなった。誰よりも祖母が悲しんでいるだろう。
昔は、長男である祖父がすべてを取り仕切り、こんなくだらないことを誰にも言わせなかった。このとき、祖父は祖母の急死と少しのボケで、なにもできなくなっていた。祖母と祖父は、よく喧嘩をしていた。祖父と祖母は、祖母が病気になる前に、二人で旅行に行く予定だった。
 
 しばらくして、祖母を火葬場に運ぶ時が来た。「最後のお別れです」と、棺が開けられる。びっくりするくらい綺麗な死に顔で、「まるで仏さんみたいやな」と、皆は言っていた。死んでいるなんて、信じられなかった。というか、ここまで、祖母の死に対する実感がわいていなかったのだが、最後に皆で、祖母に葉っぱでお水を飲ませてあげるときに、その、葉っぱ越しに感じた唇の硬さが、なにか、ぞっとするような、「死」を感じさせた。母も、叔母もとりみだし、一番落ち着いて見えた一番下の叔母は「あかぁちゃん!」と振り絞るように叫び、祖母の棺から離れようとしなかった。私も大泣きしてしまって、息が出来なくて、苦しかった。叔父は祖母が大好きだったお饅頭と、天国までの道中おなかがすかないように、おにぎりを棺にいれた。いとこが演奏した、祖母が好きだった「夏の思い出」が流れ、お別れのときとなった。夏の思いでは、演奏が終わると、先に録音されていた、クラプトンの「Tears in heaven」が流れ出し、それは予定していたことではなかったけれど、今この時に、とてもふさわしい曲のように思えた。

火葬場につき、いとこのテープを棺にいれ、全部済むまで3時間ほどかかると言うことなので、一度家に戻り、ご飯を食べた。

火葬場に戻り、骨を骨壷に納める。皆骨になった祖母を見ても、もう悲しみより人体標本を見るように、興味の方が先立っているようだった。係りの人が、のど仏をそっと拾い上げ、「女性はのど仏が崩れてしまいやすいのですが、この方はきれいに残っていますね」と、のど仏や、指仏用の小さな骨壷におさめた。お骨は足の方から順に納めてゆくそうだ。骨は白く、一部綺麗なピンク色に染まっていた。思った以上に軽く、さくさくと崩れ易くなっており、焼き菓子のようだった。

 葬式も終わり、私達はやっと悲しむ時間を与えられた。毎日皆で、祖母に経をあげる。いろんな後悔からか、祖父は祖母の遺影に「待ってろや、寂しくないよう、俺もすぐいくからな。」と、うわごとのようにつぶやいていた。私は、なるだけ祖父と話をするようになった。祖父のボケの原因は、祖父のもごもごとした話方のせいもあったからだ。誰も何を言っているか理解できず、会話が出来ない。でも、なるだけ、あいずちを打ったりしなくてはいけないのだ。
 
 私や母がが来るたび、叔母やいとこは、「一人いなくなっただけでも、すごく部屋が広くて寂しいから、来てくれると安心する」と言っていた。祖母は毎日「早く風呂はいれよ」とか、「無駄な電気をつけるな」とかうるさくて、皆煙たがったりしていたが、「いなくなるとおかぁちゃんの言ってたことがな、みんな正しいねんて気づいてん。おかぁちゃんのやってたことを私がやってるとな、同じ言葉が出てくるねん。私、おかぁちゃんににてきたわって思う。」と、叔母は言った。母と、一番下の叔母は、「やっぱり、結婚して家を出ても、親子やから、おばぁちゃん死んだら、心の柱をなくした様で不安やねん。」と言っていた。叔父も、よくきているようだった。彼は婿養子にきていて、祖母とは10年以上同居していた。叔父は、葬式が終わった後、一人で遺影の前で30分も手を合わせていた。母の再婚相手は叔父が泣いていたと言っていた。「血の繋がった母親みたいに思ってるねんよ、きっと。一緒にくらしてたんやから。」と、母はいっていた。

 毎年恒例の餅つきもせず、今年は寂しい正月になった。
お葬式からもう半年以上も経つが、未だに祖母の不在にハッとして、夜、眠れなかったりする時がある。それは、母も、叔母達も同じだと言っていた。祖父は祖母と一緒に寝ていた寝室に一人で寝るのを怖がって、祖母の遺影のある仏間に寝ている。

 たった一人、この地球上からいなくなっただけだ。知らない人なら、TVの中の出来事のように無責任な言葉を言うだけであろう。しかし、それがとても大事な人だったら、こんなにも、心細く、悲しい。
2002年07月02日(火)

宝物 / リカ

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