以下、2月上旬の日記。
夕飯の時に、父と高橋克彦氏の小説について話した。高橋克彦氏は歴史小説にUFOネタを絡めて書いている作家であり、私の持つ高橋氏についての知識はそれくらいである。というか、そもそも「歴史」という概念があんまり好きじゃないところがあるので、いわゆる「歴史小説」“と分類されている”小説を読まない傾向が私にはある。
と同時に、『「歴史」という概念があんまり好きじゃないところがあるのである』と述べているにも関わらず、私が読むもの&見るもののほとんどすべては「過去」についての記述&表現であり、言ってみれば、私という主体は「現在」を生きつつも、周囲から提供される溢れんばかりの「過去」に半分埋もれている存在なのである、というコトも自覚しているので、『「歴史小説」“と分類されている”小説を読まない傾向が私にはある』といいつつも、“実質的には” 歴史小説ばっか読んでることも知っているのであるが。。。
というか、父と「歴史」そして「歴史に埋もれてつつ生きている人間という生」について話していて改めて気づいたのであるが、やはり、人というのはどうやら、その人の脳が持つ“志向性”を年をとればとるほど変化させることはできなくなるのかもしれず。
何気に父は法学博士号を持っている。しかし、法学者ではないし、弁護士でもないし、法律とは直接何の関係もない仕事に就いているのであるが、父本人は満足そうな様子である。周囲の人たちの中で父が法学博士であることを知る者はいなそうだし、むしろ、言う必要性が無いくらい現状に満足しているのだろうなぁ、という感じである。
(★注★これを読んでいる方々のなかには、妙な偏見やイデオロギーに侵されている方がいないのはわかっているのですが、念のため書いておくけど、私を含め私の家族は、いわゆる博士号とか修士号とか出身校とか、そういう『学歴というイデオロギー病』に侵されている家族ではありませんので念のため。。短く言えば、「学歴は意味なし♪」というコトを、身をもって体現している人々でありまする。)
しかし、その人の持つ“志向性”と過去のある時点から連続している習慣は、端的に「現在」に現れているのだよなぁと、父を観察していると頻繁に思う。まず、父はわからないことがあると「すぐに調べる」「メモする」。「歴史小説を好む」そして「コメディタッチの法廷ドラマ&映画を好む」。(例;アリー・マイ・ラブとか、キューティー・ブロンドとか。。)
その他色々あるのであるが、あんまり長くなるのも疲れるので、無理やりまとめに入るとすると、「法学」とはそもそも“ルールの束”であり、そしてルールとは、“過去から現在へと連続する善悪の価値判断とその修正の継承の束”であり、言ってみれば「歴史」そのものであったりするワケであり、“現在の”父という人の脳は、まさに、“過去の”彼の志向性そのままを表出しているんだな、って思った。。ということで、
★君の脳がどのようなときに
ドーパミンを放出させるか言ってみたまえ。
そうすれば、わたしは君がどんな人間か言い当ててみせよう。
(脳科学者・茂木健一郎)
は、やっぱ、真実なんだなぁ〜。そしてまた、
★脳のクセの6割は遺伝子。
なのでまずは脳の問題は遺伝子の問題として捉えて
その後で人間関係や社会に原因を探っていくべきもの。
(ウェブで出会った名言・人物不詳)
が真であるとするならば、父の持つ志向性は、私へと受け継がれているのも確実だな、と思った。。