以下、
この前読んだ、
吉本ばなな著『虹』について思ったことを文章化。
まず、全体的な視点からこの作品を眺めてみると、よく出来た作品だなぁとマジメに思う。全編を流れるアッサリとした空気感、「名言」(小説には付き物の、人生の真実を言い当てたセンテンス。)の装入箇所を選択するセンス、物語の中にゆったりと横たわる“暗に秘められた真の構図”を、軽やかに読者に「想像」させる熟練した技術も素晴らしい。
というか、“暗に秘められた真の構図”とは、言ってみれば、「自然」を愛する「ご主人さま」と「お手伝いさん」という“主従関係”での“純愛”であり、「資本主義」的で野心のある「美しい奥様」と彼女の恋人との“不倫”の対比。それと、「妄想恋愛」(純愛とも言う。)と「現実恋愛」(セックスを伴う。)の対比”がメインなのかなぁと。
で、「資本主義」的な要素と「自然」を好むという要素が共存している「ご主人さま」の気持ちの変化を通して、最終的にはやはり「自然」だよね、ということを暗に示すような感じの流れ。
で、ポイントは、「妄想恋愛」から「現実恋愛」への“急激な変化”かなぁと思う。これがあるがために、ある種の読者はガッカリするだろうし、またある種の読者は、「これってもしかして、笑うツボなのかな?」という感じかもしれず。。
でも、この「妄想」から「現実」への“急激な変化”を、読者に急激と感じさせずに「ま、それもアリかな」と思わせることができるアッサリ感、を描くことが出来るのって、吉本氏の強みだ思うし、この「突飛さ」を描く技術にかけては、彼女以上の作家はいないようにも感じる。
で、以下は、私個人の主観的嗜好に基づいた感想。
この作品が「好きかどうか」といえば、「好き」ではないなと思ったし、誰かに読むように積極的に薦めることはしない作品だろうなぁと思う。要するに、読む人を選ぶ作品だと思うのであるよ。
で、好きではないな、と思った理由というのは、この作品の根底を流れる古めかしい価値観そのもの、が理由かな、と思う。
例えば、「ご主人さま」が「1回でいいんだ、やらせてくれ」と言い、「お手伝いさん」である主人公が「「わかった、いいよ、寝よう」と応じる場面とか。
で、問題は何かといいますと、「やらせてくれ」と「ご主人さま」に言われてから、主人公は「抵抗」するくせに「やらせてしまう」、、、っていうのが、ちと違うかなと思った。。
というか、設定上、「ご主人さま」と「お手伝いさん」である主人公ふたりは「両思い」なワケですし、「抵抗」せずに「やらせてくれ、じゃないでしょ、やりましょう、でしょうw」と主人公が答えたほうが、「現実的」かつ「現代的」かな、と思ったりもしたなぁ。。
で、比べるのも何なんだけど、例えば、山田詠美氏の小説の場合だと、「やらせてくれ」という言葉で「やらせてしまう」女性の主人公って有り得ないし、そもそも「やらせてくれ」という言葉ってオカシイのであーるよ、「やりましょう」が正確な表現ですよなw、という暗黙の前提があるのである。よって、そういうニュートラルな価値観を土台として作品が成立しているという意味でも、安心して読めるのである。
「やらせてくれ」ってセリフは、確かに「現実的」ではあるし、「妄想恋愛」から「現実恋愛」への“急激な変化”を描くにはもってこいのセリフだとも思う。しかし、短く言えば、「現実的」ではあるが、「現代的」ではないように私には思われましたわ、ふむふむ。。
それに、「タヒチ」という舞台装置と「ご主人様」と「お手伝いさん」という関係から、ある種の読者はポストコロニアム的な匂いを感じ取りすぎてしまう可能性があるようにも思いますし、ちと、行き過ぎちゃったかもなぁと思う、「やらせてくれ」は、ちとね。。
でも、まぁ、「やらせてくれ」というセリフによって、忘れられない作品になったことは確かですな、ふむふむw