午前中、1週間前に亡くなった1つ上の先輩のお葬式へ行ってきた。
久しぶりに見る写真の中の彼女はやはり美しくて、それでいて私の思い出の中にある彼女よりも、ずっとずっと当時の“あの”繊細さを感じさせない彼女だったように思う。もしかしたら、“あの”繊細さが邪魔だったのかもしれないなぁ、と写真を見てすぐに思った。
“あの繊細さ”を努めて削ぎ落とそうとしなくてはならない何かの事情があったのかもしれない。というか、この国でそれなりに競争を問われる場を選んだとすれば、そうしていかなくちゃ、、日々を続けていけない文脈があるわけで。でも、彼女の場合は、もともとの“あの”繊細さが普通の人のそれよりも大き過ぎたのかもしれない、どんなに削ぎ落としても、薄らとほのかに残ってしまうくらい。と思い、勝手に納得することにした。
集まってきた人たちは、「女優さんみたいに綺麗な人だねぇ」なんて言い合っていて、まるでここは葬儀の場ではなくて、もうすぐお見合いとか結婚式とかその種の何かが始まりそうな感じがして、「いや、綺麗だからこそ死んでしまったのですよ」という率直な感想を述べられないまま、私は頷くしかない、というような雰囲気だった。
彼女を知りすぎていないが故に現実的な、そして無邪気でいることが可能な人たちが予想以上に沢山居てくれたおかげて、私はといえば、自分がこの場に来た理由がどんどんとぼんやりとしたものへと変化して、「悲しい」という感情を味わえたのはほんの数秒だったような気がする。
こんなにも集中的に「悲しい」という感情を味わったのは久々で、彼女の写真を何度も振り返って観ていたのは、今思えば、“事実”が感情の影に隠れてしまわないための、私なりのバランスのとり方だったのかもしれないなぁと思う。
最後に、改めて1つ思ったこと。瞬時に涙を流せるほどの“事実”って、そんなに多くない。“事実”に感情が追いつくのはずごく時間がかかるものなのだ、きっと。