つい30分ほど前。「あのね、あそこの娘さん、亡くなったんだって」と母がおもむろに教えてくれた。。それを聞いて、私はうっすらと驚いて、彼女のことを思い浮かべた。“あそこの娘さん”というのは、同じ小中学校に通っていた、1つ年上の美しい人だった。
去年は、1つ年下の、同じく美しい人が亡くなった。「死」について考える習慣を持たないお気楽な私は、こうしたことがある度に、「死」へと引き寄せられる感情の力学について、ぼんやりと考えたりすることが多い。
「自殺したいと思う気持ち」はわからなくもない。けれど、「自殺したいと思う気持ち」と実際に「自殺する」というコトの距離って、こんなにも「遠い」んだと思える。
同時に、「遠い」と思える自分自身の脳って、「近い」と思えたであろう彼女の脳とは全く違う現実を見ていたのだろうなぁとも思う。その意味で、「主観」を何処に置くかこそが、すべてと言っていいのかもしれない。
というように、冷静ぶりながら書くと、あんまり悲しんでいないように見えるかもしれない。けれど、「悲しんでいるように見える」ことと、実際に「悲しんでいる」ことは大分違う。(そうでなければ俳優という職業は成立しないし。)
それに、“美しく見える”ことと、“美しい”ことも違うのかもしれない。もしかしたら、“美しく見える”からこそ、周囲の誰もがなんとなく安心して、気づけなかったのかもしれない。なんてことまで考えを巡らし始めると、終わりが見えないし、そもそも終わりなんてなんだなぁという考えに行き着くのが常であって。
というか。
「演じる」のはね、俳優さんだけで良いんだよ、って、言ってあげられる誰かがたくさんいれば良いのかもしれないし、そう言える誰かであれることが、小さいながらも自分なりの貢献と呼べるものなのかもしれないと思う、そう言える人でありたいと思う。