たくさんの人たちの今を垣間見る度に、最近どうしようもなく思ってしまうことがあって。年齢という要素にそこまでの意味はないと知りつつも、私よりも少しずつ年上の、数人の方々のそれぞれの今、という事実が事実として横たわるに至った過程を思うとき。その“差”を産み出したモノって、一体何だったのだろうなぁ、とぼんやりと思うんだけど、それって何だと思う?
それが将来のある時点において“差”と呼べるほどの決定的な“差”となることなど無自覚に、これがわたしの生き方なのよ、と、“生き方”ということばで自己の思いのすべてを収束されていくしか道は無いのかもしれないなぁ、とか思うと、無性に淋しくなるんだけど何なんだろうね、これって。
というか。理想は、“すべての道具を知恵へと置き換えること”なのかもだね。細かいことを飛ばして凝縮して表現すれば、物理的な荷物も、精神的な荷物である自意識も可能な限り少なくして、軽やかに進めば良いのだと思う、そうそう多分、“軽やかさ”ってのがポイントだと思うんだ。
だから、まずは足を引っ張る人たちからは“上手く”逃げることだね、“上手く”逃げるためには、“違う”という“差”を“上手く”感じさせるのが一番で、少なくとも僕はそういう方法でやりたいようにやることの自由さを手に入れたような気がする、資本主義という“制約”の中で、だけどね。
ほとんどの人は「お金」というボトルネックがあるが故に記号へと夢を託す。自分が有利な立場であることを示すために権威的な記号を付加し続ける傾向があるように思う。けれど、そういうメンドクサイ作業をしなくてもこうすればいいんだよ〜、というような感じで、ひょうひょうとしていて、それでいてそうできる状態へとすべてを持っていける凄みがあって。
なんか好きだな、と思う、こういう自由な気分を味あわせてくれる人って。