以下、「意味」についてのあまり「意味」がない日記です、はい。(よって「意味」を見出すのはご遠慮くださいなw)
「意味」を見出すのは自由。だけど、ある物事からそういう「意味」を受け取ったということを相手に伝えて、その「意味」でよいのかどうか確認する、というのは必要なこと、というのは一般的な理解だし私もそう思う。なので、たまにそういう手続きを踏まずに、受け手独自の世界内、要するに脳内だけで「意味」を自己完結して解釈している人を発見すると、ちと戸惑うのかもしれず。
というか、結局は、「意味」の発信者が想定していた「意味」と、受け手が感じる「意味」が、同じ面積・同じ体積で重なり合うことは無いわけだけど、それでも「意味」の“軸”は確認しないとやばいんじゃないのかなぁ、とか。
って、私は物事に「意味」を“見出す”ことに価値を置く種の人ではないし、「意味」を“見出す”人に比べると単に淡々としているからこう思うだけなのかもしれないけど。たぶん、「意味」を見出すことにエネルギーを使うことって、現代的な病気なのかもしれないなぁ、と。
と、いうようなことを、相手が発した「意味」の“軸”を無視して突進している人に出会ってしまい思ったりした。「意味」という場から離れて無重力空間に身を置く感覚って、私は好きだけど、どうやら「意味」ってある種の人にとっては離れがたい安全基地なのかもしれない。(って、たぶん私という人があっさりし過ぎているだけなんだろうけど、こう思うのはきっと。。)
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『意味に餓える社会』
ノルベルト ボルツ (著), Norbert Bolz (原著), 村上 淳一 (翻訳)