「今年26歳になるんだよなぁ〜。」などど考えていたからか
『26歳のハローワーク「仮の自分」に彷徨う私たち(asahi.com)という記事が目に留まる。前にも書いたけれど、皆が同時に同じ対象に憧れそれを目指す、要するにロールモデルが無かったという意味で、私を含め1978年生まれって微妙なのであるよ。同級生たちを見渡してみても、いわゆる成功の尺度やライフスタイル上の価値観など個人差が大きいよなぁとよく感じたりする。
もちろん私自身、
≪1978年に生まれ、高校生になったころにはバブルが弾けていた。輝かしい将来が約束されない時代だけに、きまじめに自分を見つめようとする純粋さと、あきらめや脆(もろ)さが混じり合っている。≫とこの記事にあるような感覚があるし、その延長線上で「あと2、3年早くか遅く生まれて現在を過ごせていたらよかったなぁ〜。」などど甘ったるいコトをたまに考えたりもしまする、はい。
っうか、記事に戻る。こうした現状を統括し、精神科医の香山リカ氏は
≪「自分の存在を連続したものとしてとらえられないのです」 ≫とコメントしている。この文脈でいくと、自己は“連続”するが、時代と組織は“不連続”であり、この記事に例示されているような人たちは“連続”するものと“非連続”なものとがあることを認識できていない、もしくは間違って認識している、ってことなのかもしれない。
うーん。私自身はどうだろう。私はもっと強かなのかも。上手くいえないけれど、自己は連続した存在だと同時に不連続な存在だと思っているし、だからこそ、不連続な時代が明日始まったとしても、その中で連続する部分が大きい技術を身につけ適応しようと努めてきたように思う。というか、そういう風に考えるようになれたのって、ただ単に、幸運にも20代の前半で腰を据えて取り組みたい対象に出会えたってだけなんだろうなぁ。
また、特定の職業を選ぶことで、
≪将来の自分を想像できてしまうことが逆に恐ろしかった≫という気持ちはよくわかる。ただ少し違うのは、私の場合は、作家の沢木耕太郎氏が、雨の日、新入社員として会社へ向かう途中に道を引き返した、という有名なエピソードを思い出してもらうと理解しやすいかもしれず。傘をささない主義の自分が、スーツを濡らさないために、自分よりも他者の眼のために、ほんの微かな主義を捨てようとした。そういう風に、何かの拍子に、自分なりの傘、つまり、譲れないものがわかるときが誰にでもあるだと思う。
それと、近頃、職業選びでさかんに言われている「好きかどうか?」という基準って、考えすぎると良くないんじゃないかなぁと思ったりもする。かなり個人的な意見だけれども、「好きかどうか?」よりも「それを通してどんな貢献したいのか?」(=目的)のほうがどちからと言えばより重要なんじゃないかと思うのであるよ。例えば、私だったら、嫌な仕事を頼まれたとしてもそれを行うことで貢献が可能ならばとりあえずYesと言う。そういう場合に、「好きかどうか?」なんていちいち考えたりする余地はないと思うのだ。
要するに、“連続”した自己を前提とした“考える”という行為によってよりも、突発的で“不連続”な何か(コントロールできない出来事や他者など)に遭遇することによって、「好きなこと」「できること」「したいこと」がわかったような気がするのだ。そういう意味で、自己なる存在を、“連続”か“不連続”かというような2項対立的に捉えるのはどうかなぁ、って香山氏のコメントを読んで思ったワケであるよ。2分法を否定しながらも2分法に囚われているように思えるんだけど、この記事って。
というか、そういうのって人それぞれだし、あくまで私にとっては、好きなコト&得意なコト&得意にしたいコトを動員して、他者に貢献するのための手段=労働、って式になってるってだけなのだが。
って、日頃言語化しようとしていないコトをこうして書いてみると、いかに言語化を試みることが大切か思い知らされますなあ。あぁ、日々精進、せねばですな。。