まだ23日の朝なのだけれど、明日は多分日記を書けないだろうから、今のうちに書いておきます。
[JMM250M] 「金融業界への就職を目指す学生へのアドバイス」、そして、http://homepage1.nifty.com/masada/diary/dia0312.htmを読んで思ったこと。
ちょうど似たようなコトで今月は悩んでおりました。「私でなければならないワケはあるのだろうか?」と。
そう真摯に己に問い続け、心の中から返ってくる答えは「そうさ、あるのさ。」だったり、時には「ないかもしれん。。。」だったりで、その時の心理状態によって結構コロコロ変わったりしました。今も正直、どっちなのかよくわからないし、もしかすると死ぬまでわからないことなのかもしれないなぁと思ったり。。。
たとえば、私はすでに「会社員になる」という職業上のオプションを捨てています。けれど“捨てて”はいるけれども、その可能性を“捨てられて”はいない。そうなる可能性は常にあって、その可能性の中にはいくつか魅せられるモノも実際あって、そういった些細な光を不意に見せられると固いはずの決意が融けそうになるような感じ。って、かなり解かりづらい表現だな、こりゃ。。。
大分前のこの日記にも書いたけれど、私は以前、金融業界を目指す一大学生でありました。が、結局は大学院生になりました。
何故かというと、一言ではいえませぬ。今でもファイナンスを専攻しているくらいだし(→頭の中は経営だけど。)、株も好きだし、金融に関わっている人たちも好きです。っうか、金融のすべてが好きかもしれん。
けれど、あの時、大学4年だった私は、いわゆる就職活動なる現象に揉まれることで気づいたのでありましょう。
タレント、エッセイストの遥洋子氏は「満員電車で痴漢に遭うのがイヤで車の免許を取った」と著書の中で書いておられました。ある女性起業家は「満員電車でのあの人との距離感が耐えられなかった」と仰っておられました。
そんな大袈裟な、と最初は思ったけれど、今ではその気持ちよく分かります。
私は大学4年生の時気づきました。毎朝満員電車に揺られ、精神的ゆとりを失いながら、月収50万円マックスと決まっている仕事をするのは「私でなければならないワケではない。」
お金ならトレーディングで創ることができる。精神的には辛くなる時もあるけれど、ソロスの言う“一線を越える”瞬間が、第3の世界が、自分の指先のどこかずっと先とリンクしているのかと思うと、濃厚な幸福を感じる。それでいいじゃないか、と。
投資で社会に貢献するコト。いわゆるSocial Development Investmentをこれからやるワケだけれど、どうなるコトやら。。。
「わたしでなければならないワケではない」けれど、「わたしであってはならないワケではない」可能性が常にあり続けるのも、また事実なりけり、かなぁ?