先日「恋愛」についてこの日記に書いたのだが、またしても知人を心配させてしまった・・・。あぁ、度々すみませんです。で、読み返してみたのだが、確かに誤解を招く余地のある文章でありました。この前の日記の趣旨は、まぁ、特別な誰かをただ一人だけ選ぶってコトに疑問があるのだよ、ってコトだったらしいよ。(じゃあ、そう書けよって?はい、すみませんです。。。)っうか、一夫一婦制自体に疑問があるって、今気づきました候。
前置きはこのくらいにして本題へ。今回は「勉強する意味」について考えてみます。お気づきの方もいらっしゃると思いますが、今回のお題目は
Nokoさんの日記にかなり影響を受けております。また、家庭教師させてもらっている子(中学生)が「何で勉強するんだろうね?」と、先日ぼやいていたことも関係しています。その時の私の返答は後々書きまする。
まず、私も「なぜ、どうして勉強するのだろう?」と考えてしまう中学生でありました。小学生時代は単純に新しい物事を知るのが楽しくて、学校も塾も大好きだったのですが、中学受験が終わったぐらいから徐々に「なんで?どうして?」と考え始めたような記憶があります。
で、ある時、ふと「勉強を止めたら何か分かるかもしれん。」と思い、止めてみました。確か、中学2年生の後半くらいだったかなぁ。(→遠い眼。。)
で、どうなったと思います?
こんな馬鹿げた実験をしてみてわかったのは、「なぜ、どうして勉強するの?」という問いに対して、「しないと困るから。」と答えるのはあまり適当ではないし、具体性を欠き過ぎているという当たり前のことかなぁと思う。しかし、当時、大人に尋ねると「しないと困るから。」と答えてくださる方ばかりだったので、びっくりした記憶があります。
が、具体性を欠いている答えであるとはいえ、一理あるような気が。確かに「困る」事態になる場合もあるのではないかなぁと。
で、大人たちの「困る」という答えに対してさらに問いを立て、「勉強しないと“誰が”、“いつ”、“どんな風に”困るのか?」を考えた私。答えは高校生になってから分かりました。それを実感するというレベルは大学生になってから。(→え?遅い?)
で、以下が「なぜ勉強するのか?」「自分が勉強しないと困ると仮定して、誰が、いつ、どんな場合に困るのか?」という問いへの私なりの答えです。
「なぜ勉強するのか?」といえば、人のためです。人とは自分と他者です。
勉強しないと困ると仮定すると、まず、“誰が”困るのか?それは人です。人とは自分と他者です。では“いつ”困るのか?勉強に関する夢を持ったときです。また、さらに大きな広範囲な勉強をするときです。“どんな場合に”困るのか?といえば、自分が自分の、そして他者の力になりたいと思った場合に、です。そう思う瞬間は、いつ、どこでやってくるか分かりません。だから“困る”と大人は言ってくれたのでしょう。(→って私なりに解釈してみました・・・。)
「何で勉強するんだろうね?」と中学生に尋ねられ、かつて同じように考えた中学生だった頃の自分を思い出し、私は次のように答えました。
私「まず、“何で?”と問うあなたは正しい。物事に疑問を感じるのは良いことだと思うよ。」
相手「でもいつも考えてるからテストの時間、足りなくなるんだよね。」
私「最初はね。でも、今回のテストは時間足りたんだよね?点数も上がったよね?できるようになったのは“何で?”って思わない?」
相手「う〜ん。多分、何回も分からない問題をやったから、かなぁ。」
私「そうだよね。何回もやった。同じように、“何で?”って考えて分からないことも、何回もやったり、“どうやったら上手くいくだろう?”って工夫したりすると、早く答えが見つかるようになるのだよ。」
相手「うん、そうかも。そうやってできるようになった、って気がする。」
っう感じで、我が生徒さまは何となく分かってくれたようであるよ。(っうか、上手くはぐらかしてる気が・・・。)
よって、『勉強』という行為を私なりに定義すれば、“何で?”と問うことの練習である、といえそうです。そしてまた、“何で?”と問わなくても済むことを“問わない”ための練習でもある、ってコトかなぁと。
時間が押してて言えなかったけどさ、“考える”ことができるキミは結構スゴイと思うぞ?アマルティア・センは“何でインドは貧しいのだろう?”と考えて経済学者になったんだよ。
キミの“何で?どうして?”という問いの先に、『何か』があると私は思うよ。キミは素敵な中学生であーるよ。