“彼女”の話を聞きながら「やるせないなぁ。」と思った。
家に着き、メイクを落とし、いつものようにコーヒーを1リットル淹れ、日記読みアンテナ(→左にあるヤツね。)をチェックする。日記を通してたくさんの人たちのハッピーでもあり苦しくもある「今日」という日をチラッと覗かせてもらいながら、自分にとっての「今日」を振り返ってみる。
こうすると、その日の自分の軸がまとまり、何やら日記らしきモノが書けるのだが、今日は全然まとまらない。というか、冷静になれてない。もしかすると私は「恋」に怒っているのかもしれない。人事だと頭を切り替えれば済むことなのに、“彼女”の言葉や表情を思い出しては何度も「やるせないなぁ。」と繰り返し思ってしまうのだ。
たったひとつの「恋」が誰かの人生を狂わせていく不思議に、私は何度すれ違ったことだろう。
何百回と見てきたんだからいい加減慣れれば良いものを、慣れるどころか年々「やるせないなぁ。」と呟く回数は増加する一方で、「なんで恋なのさ?」とその度に思い、今夜もまた同じことを思った。
もしも“彼女”と私がもっと以前からの知り合いで、もっと親しかったなら・・・。私は迷わず言っただろう。
「あなたから“何か”を奪うだろう相手を選ぶべきじゃない。」って。
“何か”にはいろいろある。例えば、お金、仕事、可能性。そして、その人の人生そのもの。
子供を起こし、食事の用意をする。学校に行かせる。昼間の仕事をする。夜はホステスになる。そんなシングルマザーの毎日。「もうね、どうなってもいいかも・・・。」と呟く“彼女”の横顔は、「恋」や「愛」と引き換えにするにはあまりにも美しすぎて、たったひとつの、小さくはかない「恋」が今の“彼女”の基だというのが不思議で、今夜もまた「やるせないなぁ。」と思う私がいた。
どうして多くの人々は「恋」や「愛」と引き換えに“何か”を失いたがるのだろう。まるで“何か”を失くさなくちゃ「恋」でも「愛」でもないみたいに。