昨日はひさしぶりに会う知人に、ゴールデン街に連れて行ってもらいました。 (それで頂いた電話に気づけませんでした、申し訳ないです) 勝手がわからずに、ビールばっかり飲んでましたが(笑) ずっと手酌で飲んでましたが、最後のほうは手元が危うく常にあふれさせてました。 勢いよく注ぎすぎるので泡が予測できない・・・ マスターに苦笑いされていました。ごめんなさい。
隣の人が冷奴を頼んでいておいしそうだったので、私も頼んだら、 「一丁分作ったら品切れなの」といわれ、 残念ながらも素敵だなあと思ったり。 お店としては品切れよりも余らせるほうを選ぶべきなんだろうけど、 人間としては使いきりの精神が大事ですよ。 でも残念そうな顔をしていたら、「いま肉じゃが作っているので待って」といわれ、 マスターの手を見れば包丁とじゃがいも。皮をむいてる真っ最中なのでした。 いまから作るの!と思ったけど、ものの30分もしないで出てきましたよ。 ほくほくでおいしかったなー。ご満悦。
食べるのが大好きなんだけど、基本的にものを口に入れるのが好きなんだな。 おいしいもの好きだけど、まずいものを体験するのも嫌いじゃないのですよ。ある程度までは。 舌で触るのが好き。舌経験。 なのでことばもすきなのだろうと、こじ付けだけれども。 独り言が多いのとひっきりなしに何か食べてるのは、決して無関係じゃないはずだ、と。 思う今日この頃。
飲んでいたみっつ向こうの席に、某写真家さんが座ってらして、 わたしは彼の写真に衝撃を受けたことがあるので、感動してしまった。 自然でも町でも、そこにある色に目を奪われることが多いのでカラー写真のほうが好きなんですが、 彼の写真はモノクロでも迫ってくるものが強くて。自分にとって。 黒と白の中の光とか、その間にあるグラデーションとか、質感とか、奥行きとか。 たとえば新宿の街とか、雑然としていてそれだけでうるさいくらいなので、 色を失うことで雑音のなかの静けさが聞こえるようになるのかもしれないな、とか。 ミーハーなので彼の姿をちらちらと横目でつい見てしまったのですが、 とても穏やかなひとだなと思った。 すごく強い写真を撮れるひとというのは、媒体になれるひとなのかもしれない、 彼の目を一度通ることで、私の目で直接は捉えられないものが、見えるようになる気がするから。
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あした、ポエケットにコトバコとして出店します。 そこで、ユーリと一緒に作った詩集も売ります。 なんか、私のコピーが下手で、(コピー誌なんですが)あんまりきれいにできなかったのですけど・・・ でも、お互いにお互いの好きな詩を選びあったので、とりあえずユーリの詩はとても良いです(笑)
何かがひとつの形になるということは、とても嬉しい。 生きていると時間は過ぎていくばかりだし、 一度はわかったと思ったことがまたぐちゃぐちゃと見えなくなったりもするし、 それはそれで当たり前のことなのだけれど、 でも、たとえば詩集を作ろう、って思い立ったときって、 一番すとん、って気持ちがシンプルになってる瞬間だったような気がするから、 その証としても、自分の支えになる気がします。
ユーリもそうだし、ワニラの奈緒もそうだし、コトバコメンバーもそうだし、 それからほかのとても好きな詩を書く友人や、詩人の方や、 そういう人たちの言葉を、後ろめたさを持たずに好きだと言いつづけたいから、 そのために私は私であり続けるしかないのだなあ、と、思った。 それしかないもの。 自分が詩を書くことには、どうしてもネガティブな感情もつきまとうけれど、 別のところに立って、その人の内側から言葉をつむいでいる人たちを、 自分の後ろめたさに巻き込むことだけは絶対にしたくないと思った、 それは自分自身で抱えていくべきものなんだって、 そして私は、あなたのつむいだものがとても好きで大切ですって、 それに胸を張っていたいと思ったんだ。
点と点と、その間の余白と。 点で出会えたことに感謝する、 その間の余白を愛したいと思う、 その余白の中に流れ出して、そこで生まれていったものたちを、 大切にしていきたいと思う。
ポエケットで売り子してますので、よろしかったら遊びに来てくださいな。
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