星降る鍵を探して
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2003年07月13日(日) 星降る鍵を探して3-5-2

 最上階にはどこまでも続く白々とした廊下があった。
 ここにいる二人には知る由もないが、流歌や梨花がこの階に来たときに立った廊下とはまた別のものだ。見た目で一番違うのは扉の数だろう。今克と圭太が立っている廊下には、見える範囲には扉がひとつしかなかった。左手の前方にその扉があり、右手の壁には何もない。消火器も窓も扉もないつるりとした白い壁は、ひどく無機質な雰囲気を醸していた。
 圭太は迷わずにすたすたと歩を進めて、ひとつだけ見える扉の方に向かっている。
 克は耳を澄ませた。何か妙な音がしていた。ブ……ン、というような、冷蔵庫の稼働音をもっと低くしたような音だ。それに混じってリィリィという、何か鈴虫じみた不思議な音がしている。
 ――厭な音だな。
 克は周囲を見回した。
 急き立てられるような音だ。鈴虫の鳴き声と決定的に違うのは、それが人間の神経を恐ろしく逆撫でするということだろう。耳の底にこびりついて離れなくなるような不快な音色、はっきりしないようでいて確かに存在している、緩やかなリズム。
 と、音に気を取られている内に、圭太がひとつきりの扉の前にたどり着いていた。
 扉には押して下げる式のノブがついており、鍵らしきものは見あたらない。だがノブの上に薄い切れ目が走っていて、どうやらそこにカードキーを入れるらしい。ここではあの怪盗の華麗な開錠術は使えないなと思ったとき、圭太が懐を探って一枚のカードを取り出した。
 テレホンカードと同じくらいのサイズだが、やや厚みがある。カード自体に特殊なコーティングがしてあるようで、表面がきらきらと七色に光っている。それを圭太が差し込むと、カチリと音を立てて扉があっけなく開いた。
「……それは?」
「この建物内で自由に使えるセキュリティカードというやつです」
「どこで手に入れたんだ、そんなもの」
「金時計と一緒に拝借してきたんです。備えあれば憂いなしって、ね」
 言いながらも圭太は部屋の中に足を踏み入れている。扉が開くと先ほどの、リィリィいう音が更に大きく聞こえてきた。そこはかなり広い部屋だった。いくつかのブースに隔てられているので、何か雑然とした雰囲気である。話し声は全くしないが、人が数人いるらしい気配は伝わってくる。克はともかく圭太のこの怪盗姿はこのようなところではひどく目立つ。もし誰かが立ち上がったらすぐに大騒ぎになるだろう、と思う内にも圭太はすたすたと歩いて、部屋の隅に設えられたスツールの方へ向かっている。何か探しているものがあるようだ、と思ったとき、唐突に話し声が聞こえてきた。
「玉乃は? ――どこへ行ったんだ、全く」
 年輩らしい男の声だった。苛立っているその声は存外近くから聞こえてくる。
 玉乃?
 どこかで聞いた名前だ。克は眉をひそめた。玉乃。玉乃。どこで聞いたのだったか。つい最近聞いたような。
「いいか、見つけたらすぐに俺のところに連絡を入れろと言え、いいな?」
 どうやら電話で話しているらしい。克は辺りを見回し、その声の出所を突き止めた。少し離れたブースの中に、白髪混じりの頭が見えて、話し言葉に合わせてかすかに揺れている。玉乃、か。克の頭の中に、ようやくその情報が浮かび上がってきた。そうだ、桜井が、あの芸術館のタワーの中で、電話をかけていた相手だ。
 ということは、この白髪混じりの男も、桜井の仲間だと言うことになる。
 白髪混じりの男が電話を切った。
 そして、盛大なため息をつきながら、立ち上がった。そして顔を上げる。「教授」という単語を擬人化したような白衣姿の男の鋭い目が克に向けられた。
 目があった。
 あってしまった。
 まずいな、と冷静に考える。前の仕事をしていたときにもこれくらいのことは良くあったから、取り乱すような克ではないが、しかし一体どうしたものか。男が電話で誰かを呼んだりする前に、即座に行動不能にしなければ、と息を一瞬詰めたときだ。白髪混じりの男は「ああ君」と言った。
「ああ、君、ちょっといいかね」
「は」
 はあ? と間抜けな声を上げそうになるのを半分で打ち切る。白髪混じりの男は克を桜井の部下だと誤解したのだと、返事をしながら即座に理解した。何しろ克は芸術館のタワーの中で桜井の部下から奪った服を未だに着ている。僥倖だった、と思ったとき、しかし白髪混じりの男がきりきりと目をつり上げた。
「か、怪盗! どこから入った!」
「今晩は、梶ヶ谷先生」
 涼しげな圭太の声がする。圭太はスツールの前で手に入れたいくつかのものをポケットにねじ込み終わったところだった。くるりと振り返った圭太は、怪盗マスクの向こうで意味ありげに笑った。
「玉乃さんが来る前に失礼しますよ。あの人は怖いからねえ」
「ま、待て! そこの君! 捕らえろ!」
 梶ヶ谷先生、と呼ばれた白髪混じりの男はすっかり克を味方だと思い込んだようである。どうしようかと迷ったのは一瞬のみで、克は梶ヶ谷の言葉に従って圭太に手を伸ばした。しかし圭太の姿は一瞬で消えた。克の頭上をひらりと――何と助走もなしに――飛び越えた圭太の動きは、克の目でもようやく追えるかどうかというほどの速さだった。
「後で会いましょう」
 頭上を飛び越えた瞬間に、小さなささやきが上から降ってきた。
 とん、と圭太が自分の後ろに降り立ったのを確認して、一拍置いて、振り返る。何しろ捕まえてしまうわけには行かないのだ。振り返ったときには圭太の姿は既に入り口付近にまで移動している。一歩踏み出す内に扉が開き、もう一歩踏み出したときには黒いマントが扉から滑り出て行くところだった。素人の目には黒い風が吹きすぎたようにしか見えないだろう。なるほど怪盗として荒稼ぎをしながらも、今まで一度も捕まらなかったというのは頷ける。


相沢秋乃 目次前頁次頁【天上捜索】
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