星降る鍵を探して
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2003年06月25日(水) |
星降る鍵を探して3-2-4 |
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清水剛はふと顔を上げた。一体ここは何階なのだろう。我に返ると体中がわずかに火照っているのを感じた。何がきっかけだったものか、周囲が音を取り戻し、視界に色が飛び込んできて、剛は我に返った。今まで全く意味のない情報の洪水だと思えていた風景が意味を取り戻した。そこは階段の踊り場だった。見上げると階数表示が見える。 『15/16』 つまり次の階は16階と言うことになる。 「16階か」 剛は目を見開いた。いつの間にそんなに昇ってきたのだろう。まだ走り続けていた速度をやや緩めつつ、現状を把握しようと試みた。 1階から16階まで、ほとんど何も考えずに上がってきたこと。 体はわずかに熱いが、息が切れていると言うほどでもなく、疲労するまでには至っていないこと。 財布はちゃんと尻ポケットに入っているし、道着の懐、内ポケットに携帯電話が入っていること。 そして、最後に。あのマイキという少女がちゃんと、肩の上に乗って。 ……あれ。 「マイキ?」 剛は肩を払った。肩の上には塵ひとつ落ちていなかった。しばし、剛は、頭をひねって自分の肩の上を覗き込むというややつらい体勢で、考え込んだ。マイキがいない。1階の時点では確かにこの肩の上に乗っていたのに、我に返ったらどこにもいない。周囲を見渡してみて、次いで階段から身を乗り出して下を覗き込んでみたが、マイキらしい人影はおろか人っ子一人見えなかった。 「落とした……?」 剛は青ざめた。彼の浅黒く日焼けした顔は青ざめても顔色がほとんど変わらないのだが、とにかく青ざめた。初めに思うのは、あの華奢な体が全力疾走する自分の上から――しかも段差の多い階段で――落ちたらどのような怪我をするかということ、次に彼女はもはやつかまってしまったのではないかということ、最後に、「落とした」ことを新名卓が知ったらどのように怒るだろうか、と言うことだった。そもそもマイキをつれてきてしまったこと自体、卓に怒り狂われても仕方ないことだと覚悟していたというのに、あまつさえその大事な少女をどこかで落としたなど。しかもそれに気づかず走り去った俺。最悪だ――事態を把握するにつれ、剛は更に青ざめた。これ以上は想像できないと言うほどの悪い事態が頭をよぎった。つまり、マイキが大けがをした挙げ句敵に捕まりおまけに卓が怒り狂うという情景。卓がマイキをどんなに大切にしているか、先ほどの短い会合の間だけでもよくわかっていた。殺されるかも知れない。卓は穏和だが、普段穏和な人間ほど怒ると怖いというのはもはや常識だった。それに、そう、自分の身に当てはめてみて――もし須藤流歌を誰かが無理矢理つれていった挙げ句、肩の上から振り落として、あまつさえそのまま走り去ったりしたら。 「許せん」 剛は想像だけで怒り狂った。そして即座に落ち込んだ。自分はそれをしてしまったのである。どうしよう。 「と、とにかく探そう」 即座に回れ右をして、階段を下り始める。やや、早足になった。どの時点で落としたか覚えていないのだから、先ほどのような自動疾走モードに入ってしまうわけにはいかない。剛は階段を駆け下りながら、重い重いため息をついた。もともと彼の頭は二つ以上のことを一度に考えられるようにはできておらず、二つ以上の心配事を抱えるのは非常に重荷だった。流歌を助け出すと言うことが彼にとっては一番重要なのに、その目的を置いてまでマイキを探しに戻ると言うことは、自業自得とは言え身を切られるほどに辛い。こうしている間にも流歌がどのような目にあっているかと思うだけでいても立ってもいられない。当の流歌がのんきに魔窟の片づけをしているなどと、思いも寄らない剛だった。
階段を駆け下りていく。 15階に人影が見えた。 剛は行きすぎた。そして今見たものが紛れもなく人影であるということに気づいて足を止め、ひょい、と頭を戻した。 15階の廊下に、大柄な白衣の男が佇んでいる。 白衣の男はぼーっとしていた。両手にコンビニの、大きく膨らんだビニール袋を四つ抱えていた。いや、五つだ、と剛は思った。ひとつの袋は男の腕から滑り落ちてしまったらしく、今は床に様々なものを散乱させて横たわっている。 男はぼーっとしている。 何だか、危なっかしい男だと剛は思った。見ているだけではらはらする。大柄で、背が高い。高いが、幅は細いので、なんだかひょろりとした印象だった。長い手足をやや持て余し気味で、末端神経にまで上手く命令が届いていないのではないだろうか。男はどうやら、落としてしまった荷物をどうやって拾おうかと悩んでいるようだった。悩んでいる内に左手がおろそかになったらしく、傾いた袋からメロンパンがおちる。ぼとり、と。 「あ……」 男はしまったという声を上げた。そのとたん、左手が更にゆるんだ。袋がひとつ落下した。どさり、と落ちた袋から大量のメロンパンがこぼれ落ちる。 「あああ」 狼狽の声を上げて男は為す術もなく立ちすくむ。しかしこの男、こんなに大量のメロンパンをどうする気なのだろう。思いながら、剛はほとんど何も考えることなく廊下に足を踏み入れていた。男が驚いたように顔を上げ、手にしていた袋を全て取り落とした。 「ああああああ」 「しゃんとせんか、馬鹿者」 剛は低い声で男を叱咤した。ひとつのことに気を取られると周りのことがおろそかになってしまうという性癖は剛も持っているから、男が難儀しているのをどうしても放っておけなかったのである。別に他意はない。メロンパンは剛の好物だったが、別に手伝うふりをしてくすねようなどと思ったわけではないのである。断じて違うのだ。……腹は減っているが。 ごちゃごちゃ考えながら、剛はその巨体を丸めて床にしゃがみ込んだ。散乱しているのはメロンパンだけではなく、ジャムパン、カレーパン、チーズの入ったパンなどに加え、カップラーメンやいなり寿司やおにぎりと言ったものまでたくさんあった。この男はこんなにたくさんの食料を一体どうする気なのだろう、と剛はもう一度思った。 「だ、誰だ君は」 男がいぶかしげに訊ねてくるのをじろりと見やって、剛はあ、と声を上げた。 「そこ! 踏むんじゃない!」 「あ、ああ、すみません」 どう見ても剛より年上の髭もじゃの男は、目尻の下がった悪漢と言った風情であるのに、ひどく素直な性格をしているらしかった。しかしとろい。とろすぎる。
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