星降る鍵を探して
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2003年06月18日(水) |
星降る鍵を探して2-5-1 |
5節
梨花と高津を乗せたエレベーターは音もなく滑り続けている。 梨花は必死で思考を巡らせていた。一階に着くまでに、何とか、この男から逃げられないものだろうか。この建物を無事に出られるとは思えなかった。建物を出られても敷地からは出られまい。それに、そう、流歌を置いて一人だけこの建物からでることなんて出来やしないのだから、どこかで絶対に逃げなければ。 このエレベーターは普通のものよりも、若干ゆっくりとした動きになっているようだ。……18、……17、……16、とランプがゆっくり降りていく。 チン。 軽い音を立てて、エレベーターが15階で止まった。 扉が開く。あちらには誰もいない。どうして止まったんだろう、と思ったとき、高津が先に廊下に出た。扉を押さえて、こちらを振り返る。 「乗り換えだ」 「乗り換え……?」 驚いた。だって、このエレベーターには1階までの文字盤がちゃんとついていて、高津はさっき1階のボタンを押していたはず、なのに、どうして押してもいない階で止まるんだろう? 「いいから降りろ」 高津が苛立った声を上げる。梨花は逆らわずに素直に降りた。何が何だかわからないけれど、これはチャンスだと思った。この期を逃しては、もう逃げられないだろう。 高津は先ほどと同じように、先に立ってずんずん歩いていく。梨花はその後に付いて歩きながら、周囲に視線を走らせる。この階もやはり同じような作りで人影が全くなかった。ずらりと並んだ扉は全て閉まっており、滑り込めそうなところは見あたらない。どうしたらいいだろう。どうしたらこの男から逃げることが出来るだろう。一瞬の隙さえあれば――。 やがて廊下の端にたどり着き、高津が足早にそこを曲がる。一瞬だけ、高津の姿が見えなくなる。ここできびすを返して全速力でかけたら、どうにか逃げられるだろうか、と思ったとき、こつん、と足に当たったものがある。 見下ろすと、消火器だった。ずらりと並んだものの内、一番廊下の端にあったものだ。目に鮮やかな赤が飛び込んできて、梨花にはそれが唯一の回答に思えた。 使い方は? やったことはない。でも、高校の時の避難訓練で、使っているところは見たことがある―― 消火器はベルトで壁に固定されていた。引っかかったらおしまいだ。梨花は必死だった。一生の内でこれほどに機敏に動いたことはないと断言できるほどだった。ベルトの留め金をぱちりと外す。ごとりと消火器が床に落ち、それを持ち上げてホースを外し、黄色い安全弁を引き抜く。物音に気づいた高津が怒りの声を上げながらこちらに戻ってくる物音を聞きながら、ホースのノズルを高津の顔の当たりに向けた。 ――人に向けちゃいけませんって言われるんだろうけど。 やがて高津の顔が角からひょい、と現れる。梨花は引き金を引いた。
* * *
玉乃は下へ向かうエレベーターに乗って壁に背を預けていた。白衣を着た彼女の肩は疲れ切ったと言うように落とされていた。どうしてあんなことを言ってしまったのか。油断した。 あの「記者」は気づいただろうか? 一般の研究所に勤める善良な研究者が、怪盗を知っているはずがない、ということを。 ――気づいてなくても同じことだけど。 彼女は呟いて、白衣のポケットに手を入れた。中には小型の拳銃が入っている。記者というのも怪しいものだ、と、拳銃のすべすべした感触を楽しみながら玉乃は思う。『善良な研究者が怪盗を知っているはずがない』のだから、『普通の記者が怪盗を知っているはずがない』という理屈も成り立つ。怪盗に狙われた機関は数多いが、そのどこの機関も、盗まれたなどと口が裂けても言いはしない。特にマスコミには絶対に言わない。ひた隠しに隠し続けるはずだ。なぜなら、怪盗が狙う財産は、そもそもそこに存在するはずがないものばかりだからだ。 エレベーターは途中で止まりもせず、滑るように下降を続けている。このビルはセキュリティカードを持たない者にはとても不親切な作りになっている。エレベーターもカードを入れればノンストップで使えるが、入れなければ15階と10階と5階で乗り換えなければならないのだ。高津が既にそのカードを奪われていることを玉乃は知らない。だから梨花に追いついて「処理」するためには、急がなければならないと思っている。 その時、ぷるるるるる、と電話が鳴った。 拳銃から手を離して携帯電話を取り出すと、液晶画面に「桜井」という文字が踊っていた。彼を待たせるのは禁物だった。人は平気で待たせるくせに、待たされるのは嫌いな男だ。 「もしもし」 出ると、桜井の、かすかに喉に引っかかるような声が聞こえた。 『玉乃か』 「ええ」 受話器を耳に押し当てて、玉乃は眉を上げた。桜井の声はいつもとわずかに調子が違う。ずいぶん機嫌が良さそうだ。 「どうしたの」 『あの子は?』 あの子、と聞いて、一瞬梨花のことかと思ってしまった。玉乃はすぐに気づいて息をついた。 「流歌ちゃんね。逃げたままよ」 『そうか。探せ。見つけたら、』 一瞬の間が空く。玉乃は桜井が一人ではないことに気づいた。怪盗がいるのかと思ったが、まだそんな時間ではない。桜井が機嫌が良さそうなのはどうやらその人物のせいらしいと気づいて、玉乃はため息をついた。胸がうずくように痛むのは嫉妬ではない、断じて。 『――もう殺していい』 そして電話が切れる。玉乃は耳から電話を離し、軽くにらみつけた。まるでその電話越しに桜井が見えているかのように。 「その人を動揺させたいわけね」 軽く呟いてみる。桜井が本気でそんなことを言っているわけではないということくらい、玉乃にはよくわかっていた。流歌を殺してしまっては、金時計が手に入らなくなる。桜井はその場にいる誰かを驚かせたくて、動揺させたくて、殺さないで欲しいと哀願させたくて、そんなことを言っている。子供じみた行動だ。桜井がこんな態度をとるのは初めてではないだろうか。 「流歌ちゃんよりも先に殺さなきゃいけない子ができちゃったけど」 呟きながら電話をしまう。怪盗の妹、流歌という女に、桜井は会おうとしなかった。でも気にかけているのは態度でわかっていた。どうやら昔何らかのつながりがあったようで、それだけならまだしも桜井は、怪盗とその妹に並々ならぬ関心を持っているようなのだ。好意と言ってもいい。ただ、桜井は気に入った相手をなぶるのが好きらしいから、好かれたあの兄妹にとっては迷惑なことこの上ないだろうが。 玉乃は目を閉じた。エレベーターはゆっくりと下降を続けている。昨夜見た流歌の姿が思い出された。ほっそりとした、綺麗な――まだ幼さを残したその姿を。 複雑な感情を持て余して、桜井に向けて呟く。 「――そんなことをあたしに言ったら、本気でやるわよ」
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