星降る鍵を探して
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2003年06月12日(木) |
星降る鍵を探して2-3-2 |
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その部屋は、一言で言えば魔窟だった。 ――うわあ…… 流歌は滑り込んだ部屋の中に人影がなかったことにひとまずホッとして、次いで周囲を見回して感嘆の声を上げた。部屋の惨状はすさまじく、ここまで来たらもはや感心するしかない。こんなに汚い部屋を見たのは生まれて初めてだった。きれい好きな梨花が見たら発狂するかもしれない。 そこは四畳ほどのこぢんまりした個室だった。 入り口は二つある。ひとつは今流歌が入ってきた扉で、もう一つは部屋の向こう側、流歌の正面にあった。しかしたどり着くのはとても大変そうだった。その部屋の中には文字通り足の踏み場がなかった。左手に部屋の半分はありそうな巨大なデスクがどかんと置かれ、それ以外の露出した壁は全て棚になっていて、本がぎっしりつめこまれ、それ以外の床には全てなんやかやといったものが投げ出されている。例を挙げれば本や器具や書類に混じってカップラーメン(未使用)だのカップラーメンのカップ(使用済み)だの割られた割り箸だのが散りばめられていて、しかしまだ新しそうなのが救いだった。やや異臭がするが鼻が曲がるほどではない。扉が外開きで良かった。内開きだったら扉を開けるのも大変そうだ。 デスクの上にはパソコンが置かれていた。液晶のモニタにはなにか複雑な式やグラフが映し出されている。しかしアルファベットや数字の羅列だったので流歌は一瞬で目を逸らし、どこか隠れられるところはないかと辺りを見回した。 少なくともあのサイレンが止んで、ほとぼりが多少なりとも冷めるまで、身を隠していたかった。 しかしざっと見回しただけで、この部屋に隠れられるところは一切ない、ということがよくわかった。かろうじて人が落ち着いて座っていられるのはデスクに備え付けられた座り心地の良さそうな椅子の上だけ。机の下はと覗いてみるが、やはりそこにも雑然としたものが詰め込まれている。何故か寝袋がひとつあったが、あんなものにくるまりたいとは思わなかった。大きいから隠れることは出来そうだが、何しろ埃まみれで、くしゃみが出て止まらなくなりそうだ。 残るは、あの扉の向こうだけだ。 意を決して足を踏み出し、できるだけ物の密度が少ないところを選んで部屋を渡っていく。サイレンはまだ続いていた。あの男の人は一体どこへ行ったんだろう、と今更だが彼女は思った。コンピュータの電源も、この部屋の電気も点けっぱなし。てことは、すぐ戻ってくるつもりだって、ことだよね。 トイレかな。 それが一番妥当な回答だろう。ということは、もういつ戻ってきてもおかしくない。そう思い至った彼女は足を早めた。もはや足下に構わず障害物を乗り越え乗り越え乗り越えて、何度か転びかけながらもようやくその扉の前にたどりつき、いざノブに手をかけようとした直前に、先ほど彼女が入ってきた扉のノブががちり、と音を立てた。 思わず振り返った。 あの人が戻ってきたのだ。 まずい、と思う。出来るなら駆け戻って扉を閉めたかったが、当然のことながらそんなことは出来なかった。怪しい者が中にいると教えているようなものだし、それ以前にこの魔窟の中を駆け戻るなんて不可能だ。流歌の視界の中でゆっくりと扉が開き、果たしてその向こうには、白衣の男が立っていた。ぼさぼさ頭の不機嫌そうな顔まではっきり見えた。彼は下を向いていたが、顔を上げたら目が合ってしまう。どうしよう、と流歌が思ったときだった。 「長津田さん!」 聞き覚えのある声がして男がはっとしたようにそちらを振り返った。記憶を探るまでもなく、さっき出会って別れたばかりの宮前さんの声だった。彼女がかつこつとヒールの音を鳴らしてこちらにやってくるのが聞こえる。長津田と呼ばれた白衣のぼさぼさ男はそちらの方に向き直り、流歌の目の前にその横顔をさらした。無精ひげの生えた頬はこけていて彫りが深く、精悍な印象を与えた。映画などで悪役を張る男が休日に、髭も剃らずにごろ寝していたところを強襲されました、という感じ。 「やあ」 「やあじゃないわよ、今何時かわかってる?」 「ああ……」 男は扉から手を離して腕時計を見た。扉がゆっくりと閉まり始める。早く閉まって、と流歌は祈る。閉まりかけた扉の向こうで長津田が答えるのが聞こえた。 「四時、ちょっと前」 「約束は?」 「……三時」 しおたれた声は存外に可愛らしい。恐らく宮前さんと長津田さんは三時に何らかの約束をしていたのに、長津田さんは研究に没頭するあまり今まで我に返らなかったと言うところらしい。長津田さんがその長身を恐縮するように縮めたのがわずかに見え、それを最後に、ぱたん、と音を立てて扉が完全に閉まった。 二人でどこでもいいから出かけてくれないかな。 流歌は慌てて背にしていた奥の扉に向かいながら、ちらりとそんなことを考えた。
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この扉は、さっきの廊下に続く扉とそっくり同じ形をしていた。 流歌は背後に全神経を傾けながら、音をさせないようにそのノブに手をかけた。鉤型のノブを下に押し下げるタイプの扉。焦る気持ちをなだめすかしながら、ゆっくりとノブを押し下げる。 ガチリ。 厭な感じの抵抗があった。 彼女は呆然と、そのノブを見つめた。 ――か、鍵が……! 忌々しいことに鍵がかかっていた。見たところこの扉にはこのノブしかついていないのに、いったいどうやって鍵を開ければ良いんだろう?
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