星降る鍵を探して
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2003年06月10日(火) |
星降る鍵を探して2-2-3 |
「あのう……失礼は承知で、ひとつだけ、教えていただきたいんですが」 梨花は用心深く言ってみた。玉乃がにこっと笑って首を傾げる。 「なあに?」 「先ほど高津さんにもお話ししたんですけど、この研究所内にね、わたしの……友達の友達が勤めているんです。残業で遅くなったおりに、わたしの追いかけている”彼”の姿を見た、って教えてくれて。だから今日おじゃましたわけなんですけれど」 「そうなの」 玉乃はにっこりした。 「それはいつのこと?」 「一昨日です」 「へえ……で?」 「電話をもらったときには耳を疑いました。だって研究所でしょう? ここの一体何が、彼の興味を引いたのか、って」 「そうねえ」 玉乃は首を傾げた。その様子を見ていると、これが演技だなんてとても思えなかった。玉乃はしばらく考えた後、首を振った。 「何かしら。わからないわ。お友達の見間違いじゃないのかしら。少なくともわたしには――思いつかないわ」 しまった―― 梨花は玉乃に視線を投げそうになるのを必死で押さえなければならなかった。どうして怪盗の話なんて振っちゃったんだろう。『わたしには――思いつかないわ』と言ったとき、玉乃の声に混じったほんのわずかな動揺は、瞬きの間に消え去った。ああ、お願いだから、と梨花は誰だかわからない存在に祈った。お願いだから、彼女が自分の矛盾に気づいたのではありませんように。 そんな僥倖が起こるはずはないのだけれども。 と、思ったときには20階に着いていた。梨花はその廊下に出た瞬間に、空気すらもがここより上の階と比べてがらりと変わったことに気づいた。人の気配が充満していた。静かなのは変わらないのに、人の発するかすかな暖かさが押し寄せてくるようだった。 玉乃はエレベーターまでやってくると、梨花の両手をぎゅっと握った。高津がエレベーターのボタンを押すと、ちょうどここに止まっていたらしくすぐに扉が開く。 「……ごめんなさいね、私の手が空いていれば案内をして差し上げるところだけれど、今からちょっと会議が入っているの。高津くん、梨花さんをしっかり下までお送りしてね? 梨花さん、お会いできて嬉しかったわ。今度はちゃんと許可を取ってからいらしてね。隅々までご案内するわ」 「そうします。お騒がせして済みませんでした」 梨花は内心を悟られぬように、笑顔を見せた。玉乃も笑顔を返した。もし玉乃が動揺しているのなら――しているに違いないのだが――その笑顔は信じがたいほどに完璧だった。その笑顔を見ただけで背筋が冷えたような気がした。無事にここから出られるだろうか。早く扉が閉まってくれればいい。この人の視線から、あたしを隠してくれればいいのに。 「それじゃあ。高津くん、お送りしたらすぐわたしのところへ戻ってきて」 永劫にも思えるような時間をかけて、ゆっくりと扉が閉まる。閉まる寸前まで、玉乃の笑顔は完璧だった。扉が閉まり、体がわずかに浮いたような感触。エレベーターが下り始めたのだ。梨花は今まで防衛本能が押さえ込んでいた全身の冷や汗がどっと浮き出したのを感じた。玉乃に取られていた腕に汗が浮いていたらどうなっていたことか、と思って大きくため息をつきそうになったが、寸前でそれを押しとどめることが出来たのは、高津が隣で大きく息を吐いたからだった。思わず足を踏みつけてやりたくなるような、うっとりした、能天気なため息。 どくどくどく。 今更ながらに鼓動が早くなる。 あの人は頭がいい、と梨花は思う。一介の大学生に過ぎないあたしなんかよりもよっぽど頭がいい。だから気づいただろう。『なんの変哲もない研究所の職員が、”怪盗”の存在を知っているはずがない』という矛盾に。そう、一般の人なら知らないはずなのだ。まだどのメディアも、神出鬼没の怪盗の存在を取り上げていない。当たり前だ。圭太は、『人に言えないようなもの』しか狙わないのだから。
『”怪盗”を追いかけているそうです』 『へえ、彼をね。大変ね』 『ええ、とっても』
ああ、あの会話だけ、なかったことに出来ればいいのに。 あそこさえなければ玉乃の言葉は完璧だった。この研究所には記者の興味を引くようなものは何もない、ということを示すため、彼女の会話の誘導は巧妙だった。高津が連発した「立入禁止」も使わず、玉乃は梨花が捕まったのは研究所全体が緊張しているせいであり、また梨花が正規の手段を執らなかったせいだと言うことで梨花の興味を逸らそうとした。梨花だってもしあの扉に近づいてあの音を聞いてさえいなかったなら、騙されてしまっていたかもしれない。 あの音。不気味な扉。あの扉の向こうには何があったんだろう。玉乃が隠しているものは、一体なんだろう。 いったいあの厄介な怪盗は、何を狙っているっていうんだろう―― 梨花は震える息を吐いた。何とか高津を撒いて逃げ出さなければ、と思った。玉乃が黙って梨花をここから出してくれるとは、もはや信じることが出来なかった。杞憂かもしれない、と梨花の中の楽観的な部分が囁いたが、あの笑顔が最後まで完璧だったことが、梨花の不安を煽っていた。
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