星降る鍵を探して
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2003年06月08日(日) |
星降る鍵を探して2-2-1 |
第2章
時間は少々さかのぼる。 何の変哲もない階段を、高津の後について降りていく。 梨花と高津は今23階から22階へ降りる階段に差し掛かったところだった。梨花は何とかこの辺の階で何が行われているのか探ろうと耳をそばだたせていたのだが、24階も23階もしん、と静まり返ったまま、なんの物音も気配も感じることが出来なかった。高津は梨花がおとなしくついてくることに安心しているのか、足早に大股に降りていく。ついていくためには小走りにならなければならないほどだ。高津が全く振り返らないことで少し大胆になってきて、梨花は歩く速度を緩めた。高津との距離が少し開いて、ちょうどたどり着いた22階の廊下を覗き込んでみる。 サイレンは既に止んでいた。 恐ろしいほどの沈黙が梨花を包み込んだ。 何の物音も気配もしない。まくっていたシャツの袖から突き出た腕に鳥肌が立っていることに気づいた。涼しい。というか、寒い。空調がよく効いているというよりも、まるで全てが死に絶えたような、ひどく空虚な沈黙―― ヴ……ン。 澄ませた梨花の耳の奥に、かすかな音が聞こえてきた。 冷蔵庫の、あの低い稼働音をごくごく小さくしたような、何かが震えるような音だ。梨花は息を吸い込んで、目を閉じた。耳鳴りだろうか。あまりにも静かだから、自分の血の流れる音が聞こえているのではないだろうか。 しかし、
リ……ィ……
リィ……
リ……ィィ……リィィ……
先ほどの音よりもさらにかすかな、何か共鳴するような音に気づいて、梨花は目を開いた。耳鳴りなんかじゃない。何かがある。梨花の目の前には25階と全く同じ景色が広がっている。同じ間隔で並んだ照明、同じ間隔で並ぶ扉、同じ間隔で並ぶ消火器。まるで先ほど降りた階段は全て嘘で、何度降りても同じ場所に戻って来ているような錯覚に加え、耳の奥にこびりつくようなこの不吉な音、気づいてしまうとその音は、なぜこんな音に気づかずにいられたのかといぶかしむほどに梨花の全身に押し寄せてきた。梨花は更に廊下の方へ一歩足を踏み出した。すぐ側にある扉からその音は聞こえてきている。全身の産毛を逆立たせるような音、鼓膜を直接引っかくような音、鳥肌が立つ、気持ち悪い、逃げなければ――梨花の思考はその音によってめちゃくちゃにかき乱されていた。わかっているのは「逃げなければ」ということだけ、しかし彼女の体は意志に反して少しずつ扉の方へ近づいていく。足が言うことを聞かない。体がひどく重くて、それなのに足が地に着いていないようなとても頼りない気分。この感覚はいつだったか感じたことがある、ああ、そうだ、マイキちゃんの感情があたしの中に流れ込んできたときと同じような。自分が自分でなくなるような。視界が歪む。息が出来ない。頭の中に何か電波のようなものが入り込んで脳の細胞ひとつひとつの間に割り込んで自分の体を構成する組織がバラバラになってあの扉の隙間から吸い込まれそうな―― あの扉の向こうに何かがある。扉がぐにゃりと歪んだように見えた。扉の隙間は恐ろしいほどに黒々として、もしあの向こうに宇宙空間が広がっていたとしても今ならきっと驚かないだろう。開けてはいけない。今すぐここから逃げなければ。そう思っても体は勝手に動いて、梨花の手がついに扉のノブを掴んだ。ぴりっ、と静電気に似た衝撃を感じる。向こう側には何か巨大で醜悪で冷ややかで張りつめた恐ろしいものが、 「……おい!」 高津がいきなり梨花の肩を掴んで、梨花は悲鳴を上げた。全身の感覚が一気に戻ってきて、酸素が盛大に肺に流れ込んで彼女は思わず喘いだ。一体なんだ、今のは――慄(おのの)きながら目を瞬くと、高津の憤怒の顔が間近で梨花を覗き込んでいた。 「立入禁止だと言っただろう! 殺されたいのか!?」 立入禁止――? 梨花はまじまじと高津を見つめた。この男はあの音に気づかないのだろうか、と思ってから、梨花は既に自分にもあの音が聞こえないことに気づいた。高津の存在があの音をかき消している。本当にごくごくかすかな音だから、誰かと一緒にいるだけで聞こえなくなるのだ。そう思い至って彼女はぞっとした。もしたった一人だったら、高津が戻ってきて引き戻してくれなかったら、あたしはあの扉を開けていただろうか? 「あの中には……何があるの……?」 「なんだと……!?」 「あなたは見たことがあるの!? あの中には何があるの、ねえ教えて、ここでは一体何が!」 「うるせえ!」 高津のごつごつした巨大な手が梨花の首を掴んだ。息が詰まった。全身の血が逆流したような気がして梨花は高津の手に爪を立てたが、苦しくて息がしにくいだけで、高津は単に梨花の言葉を止めるために喉を掴んだにすぎないことにすぐに気づいた。もしこんな大きな力の強そうな手で本気で握られていたら、こんなことをあれこれ考えることなんて出来なかったに違いない。高津は梨花が黙ったのを見て、手を緩めた。舌打ちをひとつ。 「いいか、何度も言わせるなよ。ここは立入禁止なんだ。今度こんなことをしたら、」 「それはあなたにも言えるわよ」 唐突に高津の背後から涼やかな声が響いて、高津が動きを止めた。
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