星降る鍵を探して
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2003年05月31日(土) 星降る鍵を探して1-3-1

 第3節

 その頃の飯田梨花。
 梨花は流歌のいるビルの屋上で、階下への入り口が作り出す日陰に陣取って、日焼け止めを塗っていた。塗り直すのは既に三度目だ。昨日の晩は寒くて閉口したが、この時間の屋上は暑くてたまらなかった。コンクリートが日の光を照り返して蒸し焼きになりそうな気がする。それに梨花の白い肌は日焼けには全く向かない。時には小麦色になりたいとは思うものの、梨花の肌は赤くなるばかりですぐに皮がむけてしまい、おまけに痛むのだ。ひどく。
「早く、夜にならないかな」
 日焼け止めを塗り終えてため息をつく。
 時計を見ると三時過ぎだった。
 おやつの時間だ。
 昨日の晩、夜陰に乗じて仕入れてきたコンビニのビニール袋を漁る。どうして一緒に雑誌も買ってこなかったのだろうかとぼやきながら、マシュマロを取り出して口に放り込む。ふにふにしたマシュマロの触感が口に楽しい。梨花はこういう駄菓子が非常に好きで、特にマシュマロは大好物のひとつだった。あまり食べると気持ち悪くなるので、一袋買っても全部食べきるのは結構難しいのだが、もったいないと思いながらも買ってしまうのである。
 しばらく口の中で転がしてから飲み込む。もう一つ食べようかどうしようか迷いながら、マシュマロを包んでいたビニールの接合部分を綺麗に開いて広げ、それで鶴を折り始める。しかしビニールで鶴を折るのは非常に難しい。すぐに諦めて放り出し、梨花は本日何十度目かのため息をついた。
 暇だ。
「助けに行っちゃおうかな、もう」
 隠密の活動時間は夜に決まっている。この時期、日暮れまではまだ数時間はある。隠密として、このような輝かしい太陽の下で活動を開始するのはいかがなものかとは思うのだが……でも、退屈で死にそうだった。
 ウィィィィ……ン。
 背中を預けたコンクリートの向こうで軽い音が聞こえ、梨花はそのままの体勢で目を瞬いた。機械の作動音に似た、ほんのかすかな音だ。もしこれほどまでに退屈しきっていなかったら、きっと聞き逃していたに違いない。
 エアコンの作動音だろうか。
 とっさに思い浮かんだ推測を、即座に却下した。空調の音なら、今まで一度も聞いていなかったのがおかしい。
 では、エレベーターの音だろうか?
 誰かが屋上に向かっているのだろうかと思ったが、これもちょっと考えてから却下した。梨花が今背を預けているこのコンクリートの向こうにあったのは、確か階段だったはずだ。
 では、何だろう。
 身を起こしたとき、もう一度はっきりと、さっきの音が聞こえた。
 ウィィィィ……ン。
 それに混じって、誰かの話し声が聞こえてくる……
『……らく、きん……れんらく、げんざい……』
 館内放送だ……!
 梨花はぱっと立ち上がった。さっきのウィィィィンという音はきっと、放送への注意を促すサイレンだったのだ。考えながら階下への入り口へ回る。ガラス張りの扉の中には誰も見えない。鍵がかかっていたがヘアピンであっという間に開け、用心深く扉を開くと、隙間から中の冷たい空気と一緒にその放送が押し寄せてきた。
『……階下へ向かって逃亡中です。銃らしきものを持っているとの情報が入っています。職員は全て自室へ戻り、鍵をかけてそのまま待機してください。繰り返します。緊急連絡。現在不審者が館内に入り込み階下へ向かって逃亡中です。詳しい情報が入り次第お知らせします。職員は全て自室へ戻り、鍵をかけてそのまま待機してください』
 ――不審者……?
 流歌だろうか。流歌が逃げ出して、見つかってしまったのだろうか。でも、銃を持っているって……?
 考えながらも一度戻って荷物をまとめ、入り口に戻って扉に滑り込み、鍵をかけてから階段を駆け下りる。ほとんど無意識のうちに四肢を動かしながら、梨花はまだ鳴り続けているサイレンと放送に意識を集中していた。違和感から生じる警告が胸の中にふつふつと沸き上がってくる。
 ――変な放送。
 梨花は言葉に出さずに呟いた。
 ――普通、ああいう放送するかなあ……?
 鍵をかけて自室に待機? 銃を持った不審者がうろうろしているのに? 普通だったら、避難させるんじゃないだろうか? それ以前に、そんなダイレクトな放送をするだろうか? パニックが起きたらどうするんだろう?
 階段が尽きた。目の前に扉がある。ここの屋上にはちょっとやそっとじゃ上がれないようになっているようだ。屋上への階段だけが他の階段と切り離して置かれ、おまけに鍵をかけられた扉がその屋上への階段をふさいでいる。これほど高いビルになると、事故もしくは自殺防止のためにこのような措置が取られるのだと誰かに聞いた覚えがある。ノブにつけられた鍵を開け、向こうの気配を窺いながら顔を出す。この階はしんと静まり返って、誰の気配もしなかった。サイレンと放送だけが、静まり返った廊下に反響している。辺りを見回すと白ばかりが目に入った。一定の間隔で並べられた扉と消火器の他は、白一色に塗られた殺風景な廊下。屋上でのあれほどの熱さが嘘のような、静けさと涼しさ。サイレンがその静けさをいっそう際だたせている。
 エレベーターを使うような愚は犯せないが、廊下の端には、たぶん階段がある。
 サイレンにせかされるように、梨花は廊下を走った。


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