星降る鍵を探して
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2003年05月27日(火) |
星降る鍵を探して1-2-3 |
ぎょっとして飛び上がり、その拍子に階段を踏み外した。悲鳴を上げないように押し殺すので精一杯、わたわたと宙を掻いた左手がべっちんと壁に当たった。何とかすがりついて体勢を立て直すうちにも、あのまぬけな音は甲高く響きわたり続けている。その音を発しているのはどうやら自分のポケットらしい、ということに気づいたときには廊下の角から眼鏡をかけた女性が顔を出していた。流歌がそこにいるとは思いも寄らなかったのか、眼鏡の奥で目がまん丸になっている。 綺麗な人だった。 流歌は唾を飲み込んだ。 こう言うときにはどのような反応をするのが一番妥当なのだろう。頭の中で何通りもの行動パターンが浮かんだが、ぴるるるる、という甲高い音が流歌の思考の邪魔をした。考えがまとまらない。どうしていいかわからない。電話の音はどうしてこうも人の焦りを呼ぶのだろう、とどうでもいいことばかりが浮かんで、流歌はそこまできてようやく、逃げなければいけないことに気づいた。くるりときびすを返そうとしたのはいいが、階段の上だったということを忘れていたものだから、またしても足を踏み外しそうになる。ぴるるるるる。電話の音が急き立てるように続いて、 「……大丈夫?」 呆気にとられたような、女性の声が聞こえた。 「道に迷ったの? そんなに慌てなくても、大丈夫よ」 優しい声だった。流歌は落ちかけて身をねじった体勢のまま、彼女をまじまじと見つめ、為す術もなくひとつ息を吐いた。ぴるるるるる。電話の音に急き立てられるように、何か言わなければ、と思う。 「こ……こんにちは」 ようやく出てきた言葉はそれだった。我ながらなんて間抜けな、とは思ったけれど、他に何て言えばいいのだろう? ぴるるるるるる。電話の音はまだ続く。 「こんにちは。……出ないの?」 にっこりと微笑んで、白衣の女性が訊ねた。 「え、あ、はい。そうですね」 とりあえずそう返してみたはいいが、出るわけには行かないのだ。 左手でポケットから携帯電話を取り出して、液晶画面を見もせずに電源ボタンを押す。神経を逆撫でて急き立てるような音がやんでから、流歌はため息をついた。ああ、どうしてマナーモードにしておかなかったのだろう。 「あなた、誰? 見学者? ここから上は立入禁止よ」 宮前、という女性はにっこりして、こちらに近寄ってきた。流歌より結構年上らしく、落ち着いた物腰の美女だった。染めていない真っ黒の長い髪が白衣の背に垂れていて、すごく知的な雰囲気に見える。白衣に隠された体はスタイルがものすごく良くて、やせているのに出るところはしっかりと出ているという感じで、何というか。ずるい。 今更気づいたが、とてもいい匂いがする。たぶん香水だろう。それも高そうな奴だ。綺麗に整えられた長い爪には綺麗にマニキュアが塗ってある。その手を流歌の方にわずかに差し伸べるようにしながら数歩近づいた彼女は、流歌の足下を見て目を丸くした。 「靴、どうしたの」 「そ、それが、ですね、あの、道に迷ってしまってですね、あのう、そのう」 我ながら怪しさ大爆発だ。意味のない言葉を口元から絞り出す度に焦りがつのってくる。「宮前さん」は小首を傾げたが、深く追求はせずに微笑んだ。 「寒いでしょう」 「ええ、とても」 「階段じゃなくてエレベーターから降りたらどう? その方が早いし。こちらにいらっしゃいよ、スリッパを貸してあげるから」 この人はあたしを知らないのだろうか、と流歌は思った。彼女はすっかり、流歌を迷子だと思いこんだようで、親切そうな微笑みを浮かべて手招きをしている。どういうことだろう。流歌をさらったあの人たちと、この宮前という人は、仲間と言うわけではないのだろうか。それとも罠だろうかと一瞬疑ったけれど、この人の笑顔を見ているととてもそうは思えない。 その時だ。 再び、携帯電話が高らかに鳴った。 先ほどと同じ音なのに、苛立っているように聞こえるのは……気のせいなんだろうな、やっぱり。慌てながらも流歌は持ったままだった携帯電話を見下ろして、電話の表についた小さな液晶画面を見、 ――先生……! 硬直した。「桜井」、という名前が小さな液晶画面に浮かび上がっている。あの高津という男が何度か口にしていた名前だから、あいつの仲間なのだろうということは予想していたし、そもそも敵方に桜井がいることは「鍵」を盗み出したときからわかっていたことだったが、でも実際に目にすると心臓に悪い。ことことと早い音を立てて飛び跳ね始めた心臓が、怯えているのか、それとも踊っているのか、流歌にはよくわからない。でも体が動かなかった。桜井という名前を見ただけで、金縛りになったような気がした。ぴるるるるる。急き立てるような音がいっそう流歌の体を絡め取る。そこへ、宮前さんの優しい声が降ってきた。 「お友達が探しているのかしら」 その声で硬直がとける。 流歌は息を吸い込んだ。 「そ、そうかもしれません」 気がつくと全身に汗をかいていた。流歌は大きく息をついて、そして、我ながらぎこちない笑みを浮かべた。 そこへ。 「うるさいぞ!」 怒鳴り声が響いた。宮前さんの後ろから、年輩の、やはり白衣の男が顔を出した。声からするに先ほど宮前さんのことを怒鳴りつけていた人のようだった。白髪混じりの髪をした、いかにも「教授」という名称がふさわしいその人は、怒りで顔を真っ赤にして宮前さんを押しのけるとずかずかとこちらに歩いてきた。流歌を見下ろして、怒鳴る。 「お前は誰だ。研究所内では電源を切れと注意されただろうが!」
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