星降る鍵を探して
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2003年05月21日(水) |
星降る鍵を探して1-1-1 |
第1章第1節
日当たりのいい部屋で、革張りの椅子に座って、大きなデスクに置いた新聞を読む。 背中から日の光が盛大に差し込み、彼の巨大な背中を暖めている。思わず眠り込んでしまいそうになりながら、新名克は必死で新聞の文字を追っていた。眠ってはいけない。気を抜けばうとうととまどろみそうになる自分を叱咤する。昼過ぎならともかく、今はまだ午前中だ。今眠ってしまったらきっと一日中、全身を蝕む倦怠感に悩まされた挙げ句、夜眠ることが出来ずに七転八倒することになる。そもそも俺は今事務所にいるのだ。職場にいるのだ。神聖な職場で居眠りをするなど、いや昔はよくしたものだったが、それにしてもいくら暇だからってやることがないからってそんな自堕落な。……眠い。 以前から借りていた隠れ家を事務所として整えてから二週間ほどが過ぎた。南に大きく開いた窓辺にはマホガニー製(のつもり)のデスクがどんと置かれ、依頼主や調査対象のファイルを入れるキャビネットもすぐに取り出せる場所にそろえてあった。黒光りする電話は旧式な外見とは裏腹な最新式のものだ。革張りの巨大な椅子は克の巨体を支えるにふさわしい大きさを備え、座り心地がよい上に、キャスターつきでくるくる回る。また机の上には薄く持ち運びに便利なノートパソコン。そして極め付けには鳥打帽と拡大鏡。おそらくかぶらないし、おそらく使わないだろうが、これは基本である。欠かせない。 このように、外観は全て整っている。 あとは仕事が来るだけなのだが。 世間は平和だ。 やはり広告を、もっと大々的に出すべきだろうか。電話はせっかく最新式なのに今まで一度も鳴ったことはないし、キャビネットもがらがらだった。二冊だけファイルが入っているが、綴じるべき書類が何もない。むなしい。 新聞の文字がぼやけ始め、克は一つ頭を振ると、革張りの椅子に背中を預けてため息をついた。 暇だ。 一月前の大事件の直後はひたすら疲れ果てていて、もうこのまま一生何もせずにぶらぶらして過ごしていたいと思ったものだったが……二週間もしたらこの平和な生活に飽きてしまった。克は二十七歳である。年下の者ばかりに囲まれているとつい自分を長老のように感じてしまうが、克はまだ隠居するには早すぎる年齢だったし、穏やかな生活と言うものが性格的に向いていないのかもしれない。いっそ弟の卓のように怪我をしていたらよかったのだ。克よりも十も年下の若者は、あばらに入った傷を癒すべく、静養という名の惰眠をむさぼっている。 半ば冗談のつもりで始めた事務所だったが、今では仕事が来ないかと切望する日々である。 がさり、と新聞をめくる。 尋ね人、失せ物、迷い犬。天気予報。訃報や地域のニュース。記者の見解。世界情勢の解説――と言った細かな情報まで舐めるように読んでいく。だがあまり目を引く記事もなく、新聞記者もきっと記事に困っただろう。まあ平和なのは喜ばしいことなんだよな、と思いながらページをめくると、「願い事乱発?」という、ちょっと大き目な活字が目に入った。 火星と木星の間にある小惑星群の活動が活発化しているとか、そういった話だった。小惑星群がなぜか近くの火星にではなく地球の方に吸い寄せられている原因を探るとか、最近では夜になると時期でもないのにすばらしい流星が見えるとか、そもそもその小惑星群というのは何億年か前に火星と木星の間にあった太陽系の惑星もしくは衛星の一つが何らかの原因で破壊され、その屍が帯のように漂っているのだとか、そんなことを冗長に述べたコラムだった。記者もよっぽど記事に困ったのだろう。流星か、と思わずため息をついてしまう。流星が普段よりやや多く降ったところで、仕事が舞い込んでくるとも思えない。 散歩でもしてくるかなあ……と考えていると、きい、とキッチンの扉が開いた。まどろんでいたような部屋の中に、甘い香りが流れ込んでくる。 克は自分の額に冷や汗が流れるのを自覚した。 眠気はいっぺんで覚めた。 新聞から目を放さないようにして、気配をうかがう。黒髪の小柄な少女が大きなお盆を掲げて、上のものを落とさぬように慎重に、ゆっくりと、こちらに入ってくる。ちらりと視線を上げて時計を見ると時刻は正に十時だった。まずい。 「ま、マイキ。見てみろ。最近流れ星がすごいらしいぞ」 甘い匂いに押されるように無意識にのけぞりながら、克はできるだけマイキの持ってきた盆の上から注意をそらそうとしたが、暴力的なまでの甘い香りは容赦なく押し寄せてくる。盆の上に載っているのはショートケーキだった。マイキが焼いたものだ。出来立てだ。彼女は最近菓子作りに目覚め、頻繁に菓子を作るのである。それはいい。すばらしい。日常生活に興味を持ち始めたこと自体はとても喜ばしく、どんどんやってほしいと思う。そしてありがたいことに、マイキの腕はそれほど悪くはなかった。今彼女が持ってきたショートケーキは、スポンジはふんわりと膨らみ、間にはスライスされたイチゴが挟まれ、スポンジの上にこんもり盛られた生クリームはつやつやふわふわして甘い香りを放っている。非常に旨そうだ。しかし。 ことり、と皿が克の目の前に置かれた。 彼女はほとんど言葉を発さないのは相変わらずだったが、最近はかなり豊かな表情を見せるようになっている。その整った顔立ちは、「早く食べて欲しい」という期待に満ちていた。 「ま、マイキ……」 呟くと、マイキは、何だろうかと言うようにわずかに首を傾げた。 「よ、夜外に出るとな、流れ星がよく見えるらしいぞ。流れ星ってわかるか?」 ふるふる、とマイキは首を振った。克はできるだけ皿から視線を逸らしながら、言った。 「そうか。うーん、そうだな。見てみればわかる。綺麗なんだぞ。どういうものかというと、俺たちが今住んでいるこの地球上にな、……地球って、わかるか?」 再びふるふると首を振られ、克は唸った。こういう知識は日常生活にはあまり関係のないものだから、一月という短い期間では卓もまだ教えることができていなかったのだろう。克は今度図書館に連れていって、子供向けの本を何冊か借りてやろうと思った。幸いというか何というか、時間はたっぷりあるのである。 マイキが克の言葉を聞く体勢になりつつも、ショートケーキの載った皿を、わずかにこちらに押しやった。 食べながら話して欲しいと言うことだろうか。 再び冷や汗が流れた。 「マイキ」 何と言ってごまかそうかと、必死に頭を探る。 「確かにお前がこないだ観ていた番組では、十時になったらおやつを出そうとか、言っていたけどな」 こくり、とマイキが頷く。この殺人的なケーキを差し出しながらも、マイキは邪気のない笑顔を見せていた。焼き上がったケーキの出来映えを純粋に喜んでいる彼女に、克はその誇らしげな笑顔を崩さないためには何と説明すればよいのだろうかと、困り切っていた。もちろん顔には出さない。 「まず、あの番組は小さな子供を持つ母親向けのものでな」 こくり。 「子供というのは胃袋が小さいから、昼食まで持たせられるくらいの量の食事をとることが出来ない。だから、あの番組では、十時頃に軽いおやつを与えると良いと言いたかったわけでな」 いや、お前にすればこのショートケーキは「軽いおやつ」の範疇に含まれるのかも知れないが。呟くとマイキはああ、と何かに気づいたように頷き、ぱたぱたとキッチンの方へ向かった。ややあって盆を両手に捧げ、持ってきたのは紅茶である。ちゃんと柄のあったセットのカップと皿を使い、入れられた紅茶はいい色と香りをはなっており、新名兄弟の嗜好に合わせてか、ミルク入れもそろえられている。スプーンも忘れていない。しかし克は手を挙げた。 「違うんだ。確かにケーキには紅茶かコーヒーがつきものだが、俺は大人だからちゃんとしっかり朝食を食べたしな」 第一マイキの作るケーキは歯が融けるかと思うほどに甘い。 というのがおやつを断る唯一にして本当の理由だったのだが、それはさすがに言えない。何しろケーキをきちんと焼けるようになり、紅茶もコーヒーも日本茶も全て上手にいれられるようになったのはマイキにとって、そして克と卓にとっても非常に大変なことだったのである。克と、特に卓がその腕前に、そしてなによりその意欲に非常な喜びを感じているのは確かであり、マイキとしてはこれらの作業が楽しいことに加えて二人が喜ぶのがとても嬉しいというわけで、最近はケーキという大業にチャレンジするようになった。テレビや本からお菓子づくりの様々な情報を集めるのも欠かさない。その意欲に水を差したくはない。差したくはないが、このケーキは――まずくはないが――いかにも甘いのだった。他の茶菓子はだいたい美味しく作れるようになったのに、どうしてケーキだけはこうも甘いのだろう。 卓はと言えば、舌が少々鈍くできているのか、それとも恋の成せる奇跡なのかも知れないが、マイキの作ったものを非常に喜んでぱくぱく食べる。克は弟が恨めしかった。うまいうまいと言う前に、どうして砂糖をもっと減らせばもっとうまいとか言ってくれないのだろうか。自分でも言えないくせに、克は自分を棚に上げて弟を恨んだ。 「さ、三時になったらお茶にしような。それまでしまっておいてくれないか」 何とか差し障りのない言葉を探し出して言うと、マイキは素直に頷いた。ホッとしながらも、三時になったら何か理由を付けて上手く逃げよう。克がそう思ったときである。 ぴんぽーん。 軽い音を立ててチャイムが鳴った。 「客だ。マイキ、出てくれるか」 マイキは頷き、盆をデスクの上に置くと、ぱたぱたと玄関に向かった。克は置かれた盆とケーキの載った皿をキッチンに下げようと腰を浮かせた。開業して一月にして初のお客様である。初仕事である。やはり客の目に見苦しくないように、事務所を綺麗に整えておく必要がある。いやセールスかも知れないし梨花かも知れないのだから期待するな俺、と自分に言い聞かせたとき、玄関の方で聞き覚えのある声が上がった。 「やあマイキちゃん、元気そうだね。上がっていいかな」 次いで、玄関の閉まる音、玄関で靴を脱ぐ音、そして廊下を歩いてくる三つの足音が聞こえる。なんだ、あいつか――克はやや落胆して再び椅子に腰掛けた。客じゃなかった。知り合いだ。そうだ、このケーキを出してもてなしてやったらどうだろう、と非情なことを考えたとき、正面の扉が開いた。 「こんにちは、お兄さん」 相変わらずの間延びした声。一月前の事件で世話になった、普段着の怪盗が、人なつっこく笑った。
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