星降る鍵を探して
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2003年05月20日(火) 序章

 清水剛は自動販売機の前で思案に暮れていた。彼の好物である「あたたかいおしるこ」は、梅雨も近いというこの季節には既に自動販売機から姿を消しているので、最近はいつも飲むものに悩む。その巨躯と厳つい外見にもかかわらず彼は極めて甘党だった。彼の嗜好にぴったり合うのは「歯に沁みるような甘さ」であるという事実に加え、『拳道部』の激しい部活動で酷使された筋肉は普段よりも更に甘みを求めている。その彼の好みと筋肉の需要に耐える飲み物はどれだろう。勇猛果断な性質で知られる『拳道部』の主将は、しかし甘味に関しては優柔不断だった。
「コーラか……しかし炭酸という気分でもない」
 剛は困り切って、地響きのような声で呟いた。
 嘆くべきは昨今の「すっきりした味」「さわやかな甘み」「淡泊な味わい」を求めるという世間の風潮である。自販機の中身は世間の需要に応えるべく刻々とその中身を変え、彼の好む「どぎついまでの甘み」を売りにする飲み物は隅に追いやられるようになって久しい。
 部活動を終えた夕暮れ時というこの時間、構内は既に薄闇に包まれていた。生協前の自動販売機の前に陣取って腕組みをして唸る道着姿の巨体は、正しく通行の邪魔になっている。しかし彼を押しのけて自動販売機を使用できる強者は存在しておらず、夕食を取るために食堂に向かう学生や、食料を仕入れに購買に向かう者は足早に彼の背後を通り過ぎ、彼の周りだけぽっかりと空間があいている。
 その空間の中で、剛は三つ並んだ自動販売機のウィンドウを未練がましい目で睨み回してから、
「……購買で饅頭でも買うか」
 肩を落として呟いた。おしるこの、あのどろりとした喉越しを懐かしみながら、ひとつため息をつく。十分間にも及ぶ思案の末に出した結論にそこはかとなく敗北感を感じながら、購買の方へきびすを返そうとした瞬間だった。
「流歌(るか)ー! 待ってー!」
 女学生の甲高い声が響いた。見やると生協前の雑踏の中で小柄な女性が立ち止まるのが見えた。長い黒髪をひとつにまとめたその女学生の横顔を視た瞬間、彼はおしるこへの渇望も饅頭へ傾きかけていた意識も忘れた。流歌と呼ばれた女学生は彼の目から見ればいついかなるときでも麗しい。雑踏の中に立ち止まった彼女はあたかも泥水の中に浮かぶ真っ白な蓮の花だ。その声も可憐であり、意味のない言葉の洪水の中に流れる天上の音楽のようである。流歌という名前さえも剛にとっては好ましく、彼女は剛の注ぐ視線も知らぬげにそのまさしく流れる歌のような柔らかな声で友人に応じた。
「梨花! 今帰り?」
「うん、そこまで一緒に行こ」
 追いついた女学生はふわふわした栗色の髪を持つ美女であったが、目的物以外は剛にとってどうでもいい。二人は並んで仲むつまじそうにおしゃべりしながら正門へ向けて歩き出す。その背に向けて、剛は叫んだ。
「須藤流歌ー!」
 そして、突進する。猪突猛進が彼の信条であり、得意技でもあった。既に彼の目には彼女と自分との間を隔てる学生の波など入らない。彼らが重戦車のような剛の突進に恐れを成して慌てて避けようとするのをかきわけ、突き飛ばし、はね飛ばしながら、彼は須藤流歌へ向けて突進した。
「『警邏会』の怒れる孫悟空! 今帰りかー!」

   *

 飯田梨花は人波をすり抜けて友人の元へたどり着いた。こちらを見上げるこの同級生は人なつっこい笑みを浮かべていた。大学に入って一番初めに出来た友人は、一番気の合う友人でもあった。梨花は可愛いものが大好きである。須藤流歌は外見も、もちろん性格も、普段は、極めて可愛らしかった。
「今日は早いんだね。今は平和なの?」
 訊ねると、流歌はおっとりと笑った。
「うん、だいぶね。新入生の勧誘合戦も一段落ついたし」
「大変だったもんね、しばらく」
 梨花は流歌の所属する『警邏会』の面々が、乱暴な勧誘を繰り返す運動系のサークルの魔手から新入生を守るためにどんなに苦労していたか知っていたので、しみじみと呟いた。『警邏会』は大学構内の治安を守るというのが主たる活動目的である。この大学内に跋扈する多種多様なサークル間の治安を守るのは並大抵の仕事ではなく、流歌の同僚はほとんどが運動系のサークルに属してもおかしくないような屈強な男子学生ばかりである。流歌が『警邏会』に入ると言ったとき、梨花はこのおっとりした優しげな友人があんな過激なところに入って大丈夫だろうかとかなり心配した。しかしあのとき梨花は知らなかったのだ。彼女を怒らせるとどんなことになるかということを。入学して一年が過ぎた今では、この友人の持つ特殊能力も身に沁みてわかっていた。今では流歌が姿を現しさえすれば大抵のサークルはおとなしくなると言われるほどで、『警邏会』ブラックリストの常連には「『警邏会』の怒れる孫悟空」とあだ名されて阿修羅のごとく恐れられている。大丈夫だ。この子なら猛獣のひしめくジャングルに生身ひとつで放り出されても何とか生き延びられるだろう。
 ともあれ今の流歌は普段通りの、おっとりとした雰囲気をまとった梨花の大好きな友人である。梨花は新入生の勧誘合戦の嵐が過ぎ去った平和な日常に感謝しながら、友人と共に足を進める。
 しかし。
「須藤流歌ー!」
 背後で野太い声が響き、同時に悲鳴がわき起こった。見やると生協の方で異変が起こっていた。行き交う学生の流れを横切るようにして何か巨大な生き物が、邪魔な学生を手当たり次第にかき分け、放り投げ、突き飛ばしながら、こちらに突進してくるのである。人混みの間から丸刈り頭がちらりと見えた。彼のまとっている土に汚れた道着も見えた。梨花は思わず友人の方を振り返った。流歌は呆然とその突撃を見つめていたが、次第に事態が飲み込めてくるとその表情が変化した。まずいものに見つかってしまったという狼狽の表情が浮かび、くるりときびすを返して逃げ出そうと、する。
 と、突撃猪がさらにその地割れのような声を張り上げて叫んだ。
「『警邏会』の怒れる孫悟空! 今帰りかー!」
 まずい……!
 慌てた梨花の目の前で、流歌の表情が激変した。
 思わず上げかけた梨花の制止の手をすり抜けて、
「だ・れ・が・孫悟空ですかー!」
 あと数メートルのところにまで近づいていた男への距離を、彼の数倍は早い速度で一気に詰めて、流歌は何のためらいもなく跳躍した。そしてくるり、と空中で回転して放った跳び蹴りが、丸刈り男の顎にまともにヒットした。がこっ! と非常にいい音がして、丸刈り男がのけぞり――ゆっくりと、倒れる。
 地響きがした。
 地面が揺れた。
 丸刈りの後頭部が地面に激突した。
 痛そう……と思ったときには、流歌が地面にとん、と身軽に着地していた。相変わらず呆れるほどの身のこなしだ。彼女だけは怒らせてはならず、彼女の嫌うそのあだ名だけは彼女の前で言ってはならない、という不文律が出来て久しいが、あの丸刈り男にだけはそのような常識は通用しないのである。梨花は平和な夕暮れが崩れてしまったことにため息をつき、とりあえず流歌の方へ一歩足を踏み出した。彼女がまだ怒り狂っているようなら何とか鎮めなければならない。気分は猛獣使いである。
「誰が孫悟空ですか誰が!」
 流歌は倒れたっきり動かない丸刈り男にびしっと指を突きつけて怒鳴る。まあまあ、となだめようと右横から近づきながら――背後から近づくと「反射的に」攻撃される恐れがある――梨花がかける言葉を探したとき、がばあっ! と丸刈り男が起きあがった。
「い……いい蹴りだ!」
 人間か。
「貴様のその蹴り、やはり『拳道部』にこそふさわしい! そう思わぬか!」
「思いません」
 流歌は呆れたようにため息をついた。少し怒りが弱まったようである。丸刈り男が何事もなかったように土を払って立ち上がるのを見ながら、流歌はもう一つため息をついた。
「また勧誘ですか。あたしは『拳道部』に入る気はないって、何度言ったらわかるんです?」
「何故だ。貴様のその運動能力、『警邏会』などで腐らせておくのは惜しい」
「『拳道部』は女人禁制じゃなかったんですか」
「貴様なら大丈夫だ」
「どういう意味です!」
 流歌は心底心外だと言うように声を荒げた。周囲の学生たちがしみじみ頷いているのは、幸いなことに流歌の目には入っていないようである。流歌は期待に満ちた丸刈り男の笑顔を見上げて、またため息をついた。
「とにかくあたしは『警邏会』をやめる気はありません」
 宣言して、くるりとこちらを振り返った流歌の顔はすっかり元の落ち着きを取り戻していた。まだ戦闘態勢を崩してはいないが、もう阿修羅には見えない。彼女の変貌はとても瞬発的なもので、長続きしないのが常なのである。
「ごめんね梨花、行こう」
「う、うん」
 とりあえず頷いてはみたものの、丸刈り男がこのまま引き下がるとは思えない。歩き出すのをためらった梨花の判断を肯定するように、丸刈り男が叫んだ。
「待てい! まだ話は終わっておらんぞ!」
 そして突撃を開始する。流歌はちらりと梨花に謝罪の視線を投げ、一散に逃げ出した。怒りに我を忘れているときならともかく、この不死身のように頑丈な男とまともにつき合うような愚は――殴っても蹴っても起きあがってくるのだから時間と体力の無駄というものだ――普段の流歌は犯さない。しかし逃走は今日に限ってはなかなか功を奏さなかった。開けた場所なら流歌の方が断然足が速いのだが、生協前から正門に続く道にはあいにく大勢の学生たちが行き交っており、その間をすり抜けなければならない流歌は、彼らをはね飛ばせばよい丸刈り男の進む速度と同じくらいの速さしか出せない。はね飛ばされる学生たちの悲鳴や怒号が次第に正門の方へ移動していく。やがて元の平穏を取り戻し始めた生協前で、梨花はため息をついた。
 いつものこととはいえ、あの丸刈り男が流歌に見せる執着と、流歌の放つ鋭い攻撃をことごとく受けながらも不死鳥のように立ち上がる体力には脱帽するしかない。流歌にとっては災難だが、端から見ているこちらとしては、ひどく体力を消耗させられる風景だった。
「……帰ろう、とにかく」
 呟いて、きびすを返す。周囲の学生たちも三々五々散らばり始めている。と、そのとき、梨花は地面に落ちている流歌のショルダーバッグを見つけた。先ほど跳び蹴りを放つ直前に地面に落としてしまったものらしい。
「しょうがないなあ、もう」
 拾い上げるとずしりと重い。開いた口から財布がのぞいている。大学の近くに兄と一緒にアパートを借りている流歌は、財布がなくても帰れないということはないが、それでもやはり何かと困るだろう。ちょうど帰り道だし、届けてあげよう。一緒に夕飯を取るのもいいかも知れない、と考えながら流歌のバッグと自分のバッグを両肩に掛けて歩き出した梨花は、正門の方がすっかり静まり返っているのに気づいた。
 もうあの二人が通り過ぎた後だからなのかとも思ったが、それにしては帰りを急ぐ学生たちの立てる喧噪すらも聞こえない。おかしい、と思いながら彼女は無意識に足を早めた。やがて、正門が見えてくる。正門付近の学生たちが呆然と立ちすくんでいる。その中に、やはり呆然と佇む丸刈り男の後ろ姿も見える。梨花はいよいよ走り出した。あの丸刈り男が流歌の追跡も忘れて立ちすくむなんて、異常事態だとしか言いようがない。
「し、清水さん?」
 走り寄って、一学年上である丸刈り男にそっと声をかける。流歌の姿はどこにも見えない。すると丸刈り男はいきなり振り返って、梨花をまじまじと見つめ、わななく唇で呟いた。
「大変だ」
「どうしたんです……?」
 この男がここまで動揺するのを、梨花は初めて見た。その日に焼けた赤銅色の肌が、気づけば青黒く見えた。夕暮れの光のせいかとも思ったが、そうではないことにすぐに気づいた。丸刈り男は蒼白になっていたのだった。彼は愕然として、青ざめて、どうしていいか全くわからないというように、うめいた。
「須藤流歌がさらわれた」


相沢秋乃 目次前頁次頁【天上捜索】
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