一度だけの人生に
ひろ



 愛は言葉か?

太宰治の「新ハムレット」を思い出す。

物語の終盤、
ハムレットとオフィーリアは
「愛」の実体とは何かという問答をする。
僕はこの部分が、この小説の主題ではないかと
思うし、また、読んでいて一番面白い箇所だ。

その問答の一部を引用する。詳しく読みたい人は↓
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1576_8585.html

ハムレットは
「言葉の無い愛情なんて、昔から一つも実例が無かった。本当に愛しているのだから黙っているというのは、たいへん頑固なひとりよがりだ。好きと口に出して言う事は、恥ずかしい。それは誰だって恥ずかしい。けれども、その恥ずかしさに眼をつぶって、怒濤に飛び込む思いで愛の言葉を叫ぶところに、愛情の実体があるのだ。黙って居られるのは、結局、愛情が薄いからだ。エゴイズムだ。どこかに打算があるのだ。あとあとの責任に、おびえているのだ。そんなものが愛情と言えるか。てれくさくて言えないというのは、つまりは自分を大事にしているからだ。怒濤へ飛び込むのが、こわいのだ。本当に愛しているならば、無意識に愛の言葉も出るものだ。どもりながらでもよい。たった一言でもよい。せっぱつまった言葉が、出るものだ(中略)
言葉のない愛情なんて、古今東西、どこを捜してもございませんでした、とお母さんに、そう伝えてくれ。愛は言葉だ。言葉が無くなれや、同時にこの世の中に、愛情も無くなるんだ。愛が言葉以外に、実体として何かあると思っていたら、大間違いだ。」
という。

オフィーリアは
「人は、本当に愛して居れば、かえって愛の言葉など、白々しくて言いたくなくなるものでございます。愛している人には、愛しているのだという誇りが少しずつあるものです。黙っていても、いつかは、わかってくれるだろうという、つつましい誇りを持っているものです。それを、あなたは、そのわずかな誇りを踏み躙って、無理矢理、口を引き裂いても愛の大声を叫ばせようとしているのです。愛しているのは、恥ずかしい事です。また、愛されているのも何だか、きまりの悪い事です。だから、どんなに深く愛し合っていても、なかなか、好きだとは言えないものです。それを無理にも叫ばせようとするのは残酷です。わがままです。」
という。

この二人の話はなかなか難しい。
どちらの言っていることも正しいような気がするのだ。

そして、今まさに、僕と彼女はこの二人の関係に立っている。
僕がハムレット。彼女がオフィーリア。

2004年07月29日(木)
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