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■ ミシン
ああすれば、もっとこの人はよろこぶのだろう、 こうしたらもっと役に立てるのだろうな と思うことは たくさんうかんでくるのだけれど そのことがきっかけで 人と距離をつめることになるのを おそれてしまってわたしにはなかなかできない。
この間、ある人からミシンがないから 「ミシンを他の人に借りることにしたの」という話を聞いた。 それなら、わたしの方が近いしミシンをお貸ししましょうか? ということばが喉元まででていたのだけれど・・・ この人はもう借りる人を決めたんだから・・・ と思ってその言葉はのみこんだ。
というより、 埃をかぶったコンセント、 操作説明書がしみでよごれていること、 なんかがふと気になって 役に立ちたいキモチ>やっぱり何にも言わない方が いいというキモチになってしまった。
そのあと、一週間そのことが気になり続けた。 気になる、というより苦しむと言った方が いいかもしれない。 その人が他の人にミシンを借りるまでが その時から一週間後だったから。
わたしが貸してあげればいいのか・・・ もう借りちゃってるかもしれないけど 申し出るだけ申し出てみるか。 持ってるのに、家が近いのに 何にも言わないなんて、水くさいのではないか? わたしは、たしかに+αの会話が苦手。 でもだからといって、人として飾り気なく 人の役に立ったらうれしいという感情まで その苦手意識のためにおしこめてしまうの? もしそうだとしたら、あまりにもさびしいこと。。。
だけどこの前は言わなかったのに 今更言うことにも勇気がいった。 葛藤したけど結局 人の役に立ちたい感情よりも、 汚れた操作説明書によって さらけ出されるものへのためらいのほうが勝ってしまった。 いいえ、 たとえ操作説明書が汚れてなくとも ひとこと声をかけるのには一筋縄では いかなかったでしょう。
人とふれあっていくことは、うれしいこと。 人が喜んでくれることはそれ以上にうれしいこと。
しかしそれとはうらはらに、 人とふれあって 徐々に自分の個としての部分を あらわにしていく過程が とんでもなく勇気がいり、 易々と口に出来ないほど心にずっしり 負担になる。
なにも隠し立てするようなことがなくとも いろんなことをあけすけにするのが 居心地がわるいことなんだ。
今のわたしは・・・ やっぱり声をかけなかったことには正直 ホッとしている。 いつまでもこうはありたくないけれど すぐにはまだ殻を破れない気がしてる。 ゆっくり・・・いつかはきっと。 すべての行為に説明がいる変形人間の自分に 少々疲れてもいる。
2002年06月10日(月)
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