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2010年06月14日(月) 自滅したセルビア

合理的なものとは、数ある体系の中の1つにすぎない――フランスの哲学者ロラン・バルトは『表徴の帝国』(バルトが日本を訪れた際の印象をまとめた書)の中にそう記した。

プロの優秀なサッカー選手が、凡人がまったく理解に苦しむプレーをしてしまうことがあるものだ。だれも、本人さえもが、説明できないものだ。珍プレー、凡プレーと、笑って済まされるうちはいいが、W杯の大事な試合においても、否、大事な試合だからこそ、そのようなプレーが出てくるとも思えるのだ。

大観衆の声援とブーイング、国を背負う自意識、相手選手のプレッシャー・・・正常な判断を狂わせる要素が満ち満ちていることは理解できる。だが、わずか数秒の「誤り」を除けば、概ね90分間は正常な、つまり、合理的な判断の下でプレーをしているのだ。

東欧のブラジルと異名をとった旧ユーゴスラビア。旧ユーゴを構成していたセルビアは、ユーゴ崩壊後の内乱の影響により、長らくサッカーの国際舞台から遠ざけられていた。そのセルビアが、W杯の晴れ舞台で自滅した。勝利したガーナを貶めるつもりはないが、セルビアが自ら敗北を招き寄せたようにさえ見えた。アフリカの強豪・ガーナが勝利に値する試合をしたのかどうか判断に迷う。ガーナの勝利、すなわち、セルビアの敗北について、うまく説明することは難しい。

セルビアは、後半29分、DFルコビッチが2度目の警告で退場となった。しかし、10人になったセルビアが逆に攻勢に出て、ガーナが防戦一方にまわる時間帯もあった。ところが後半38分、ガーナのアッピアからの左クロスに対し、セルビアのクズマノビッチがペナルティーエリア内でハンドの反則。ガーナのジャンが冷静に決めて、決勝点とした。
 
客観的に見れば、手を出す場面でないことは明白だ。欧州予選において、アンリ(フランス)がアイルランドとのプレーオフで行ったハンドとは異なる。もちろん、マラドーナの「神の手」とも異なる。アンリもマラドーナも攻撃中、すなわち、得点を取りにいく状況における、ハンドだった。一発レッドの可能性もあるが、現行の裁定基準ではイエロー(警告)にとどまっている。しかし、クズマノビッチの場合は、ペナルティーエリア内。DFがそこで反則をすれば無条件でPKを取られてしまう。

なぜハンドなのか、推測しにくい。あの場面、クロスに反応したガーナの選手の姿がクズマノビッチの近くに確認できた。おそらく、クズマノビッチは、ボールに触らなければ決定機をつくられると思った可能性が高い。しかし、前出のとおり、ペナルティーエリア内のことだ。ボールを手で制御すればPKだ。審判が見ていないと判断した?いくら考えても、ハンドの場面ではない。しかも、自軍は一人少ない・・・

結果論とは、合理的な推論の積み重ねだ。われわれが絶対的前提だと確信する合理性が数ある体系のうちの1つなのだとしたら、その社会や生活はどうなるのだろう。そう危惧するのは、近代人のポーズにすぎない。われわれは、自身が“別の体系”を選ぶことを十分知りつくしている。サッカーにおいても、社会においても。

われわれは、クズマノビッチを責められない。なぜならば、彼が自分であることを理解しているからだ。それゆえに、このようなかたちの敗戦を受け入れられるし、また、受け入れなければならない。これもまた、最近よく使われる表現だが、「サッカーの一部」なのだ。


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