2010年03月01日(月) |
五輪強化に税金を使うな |
冬季五輪が終わった。日本のメダル獲得数は銀、銅が数個。メダルをとったのはスケート部門で、スキー部門は、メダルゼロで終わった。アジア勢の韓国・中国と差を広げられたようだ。この結果をもって、日本が国を挙げて、ウインタースポーツ強化に取り組んだほうがいい、という意見を述べるスポーツジャーナリストもいる。国家予算を、ウインタースポーツの強化のために使えと。
筆者は少し前の当該コラムに書いたとおり、国家がスポーツ等の文化に関与・干渉することを肯定しない。五輪をはじめとする競技スポーツはせいぜい、個人及び団体が取り組むべきものであって、国家のカネを投入することなど、もってのほかであると考える。たとえば、フィギュア・スケートの選手を世界レベルに到達させるためには、練習場の確保、用具の調達、遠征費、世界的名声のコーチに支払う指導料・・・を含め、莫大な費用を要する。筆者は、国家がスケートの上手な選手のパトロンとなることを肯定しない。
金メダル、銀メダル等を獲得した選手が、プロフェッショナルスポーツに転向して、CM出演料等を含め、巨額の富を稼ぎ出し、それを国家が所得税として回収する、という乱暴な考え方もあるかもしれない。だが、育成した選手が金銀メダルに届かなかったならば、プロへの転身もままならないだろう。国家の投資分はゼロと消える。納税者にいかなる説明をするというのか。そもそも、そのような投資行為が国家に許されるはずもない。
筆者の知っているA君は、高校時代、将来を嘱望されたラグビー選手で全国大会にも出場した。彼は推薦で某大学に入学を許され、体育会ラグビー部に入部したが、2年生のとき膝に大怪我をし、ラグビーを断念せざるを得なくなった。そして彼は、ラブビー部を退部すると同時に、大学からも放逐された。
このことは、日本の専門的スポーツの重要な基盤の1つである大学スポーツの冷酷な一面を物語っている一方、スポーツ(文化)の「公平性」も教えてくれている。大学スポーツはアマチュアではない。同様に、五輪代表に選ばれるようなハイレベルな選手もアマチュアではない。もろもろの団体が援助をしているのであって、それでいい。国家が選手育成に税金を投入するリスクを国民はどう考えるか。育成過程で脱落する選手の存在は、税の公平性に係る1つのヒントになるかもしれない。
国家がスポーツに関与するとしたら、それぞれのスポーツの基礎的な指導を行うまでであろう。そこにフィギュア・スケートが含まれるかどかといえば、筆者の主観では、含まれない。フィギュア・スケートは、特殊なエリートのためのスポーツだと考える。
ことほどさように、冬季五輪に採用されているスポーツは、日本の風土において、特殊なものが多い。日本人がウインタースポーツで立派な成績を上げられないのは、それが生活に密着した文化として根付いていないからである。首都東京、大阪、名古屋の三大メガロポリス、さらに、三大都市圏に拡大しても、その年間降雪量はせいぜい数ミリ程度であろうか。かつては、若者の冬の娯楽としてスキーが受け入れられたことがあったが、冬場に絶対にスキーをするというライフスタイルは確立しなかった。日本が冬季五輪採用競技と接点をもてるのは、日本の北部・山岳地帯の積雪地方の若者が生活文化として、ウインタースポーツを選び、幾世代かを経るなかで、技術向上するという自然的過程によるしかないのである。
たとえば東京在住の若者が、冬場の娯楽として、スキーを選び取ることが将来、起こりえないとは言わないが、しかし、国家が税金でスキー奨励を行うことはできないし、すべきでない。文化とはそういうものだ。
ゴルフというスポーツを取り巻く状況も、冬季五輪採用競技と似ている。ゴルフはもちろん立派なスポーツであるが、国家がゴルフの普及と強化のために税金を投入することを是とする人は少数であろう。ゴルフは大衆化したが、万人が余暇にゴルフをするという生活文化は、日本に根付かなかった。いま活躍中の日本のゴルファーは、エリート教育で育成された若者たちである。彼らの育成基盤は、親の経済力である。庶民は彼らを応援するが、かりに自分たちの税金で育成された選手たちが、多額の賞金を手にするとしたら、どう考えるだろうか。
ゴルフ、サッカー、陸上、水泳、ウインタースポーツ・・・現在のスポーツを取り巻く状況は、似たり寄ったりである。国家が、五輪採用競技に投資をし、それ以外のスポーツに投資をしないという説明も困難である。五輪の勝者にメダルが与えられるからか、国旗の掲揚・国歌の演奏があるからか。日本のスポーツジャーナリスト、マスコミは、五輪のもつセレモニー性に幻惑され、五輪至上主義に惑溺し、それを国民に強制しようとしている。それが、五輪強化のために税金を投入しろ、という愚論が正論としてまかりとおろうとしている所以である。
五輪はナショナリズムを高揚させるから、五輪にカネを使えというのならば、それは国家主義である。国家主義を代弁するスポーツジャーナリストを筆者は胡散臭い者として警戒する。
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