2010年02月27日(土) |
早く終われ、冬季「五輪」 |
筆者は冬季「五輪」が嫌いである。個人の趣味の問題として。
五輪というのは、確か5つの大陸を象徴するはず。冬季「五輪」は筆者の受け止めとしては、「二輪」と半輪くらいであろうか。北半球の欧州と北米にアジアでは中国、韓国、日本が参加しているにすぎない。
国民的関心を呼んだ、フィギュアスケートも筆者からみると、スポーツとはいえない。筆者は、採点競技すべてを、五輪から外すべきだと考えている。もちろん、フィギュアのW杯があってもいいし、体操もそう。五輪にはないが、フィギュアというか、採点競技の極みはボディビルである。ボディビルが五輪競技にないように、フィギュアスケートも五輪には不要である。
採点競技には、審査する人間の主観が入る。当たりまである。そこに人種的偏見が加わる可能性を排除できない。審査員は、出場選手の個人的事情・背景、実績、名声・・・を考慮しないわけがない。もちろん、採点基準が公表されているが、それは技術点というカテゴリーに適用されるにすぎない。
身体の「美」、ポーズの「美」は、歴史的なものである。肉体や所作の「美」は、資本主義的生産様式に規定された、合理性がベースにある。そこから外れるものは下位に位置づけられ、規律と矯正が求められる(ミシェル・フーコー『監獄の誕生』)。労働におけるフォーディズムとフィギュアの採点基準は、合理性を最高の美とした優劣を競う点で同一である。資本主義社会は合理性に対して劣位にある者を矯正し、フィギュアの採点者は、合理性に対して劣位にあるものを下位に位置づける。
合理的なものとは、数ある体系の中の1つにすぎない(ロラン・バルト『表徴の帝国』)。たとえば、100メートルを走ってだれが一番早いかを競うには、いかなる偏見も歴史性も介入する余地がない。一方、採点競技には芸術点と称する主観性が結果に介入する。ここでいう芸術性とは、近代合理性を価値基準とした「美意識」に基づいている。そして、それは、悪しき近代主義=西欧偏重主義そのものである。女子フィギュアでは、アジア勢が金銀をとったではないか、と反論されるかもしれないが、金銀の韓国と日本の選手は、アジア人でありながら、西欧的美の表現において、他の西欧人より上位にあるという結果にすぎない。
近代五輪は、ナチス時代のベルリン大会において完成した。聖火もベルリン大会を起源とするから、20世紀の「儀式」にすぎない。ナチスドイツが聖火の儀式を五輪に取り入れたのは、古代アーリア人の宗教に拝火があったからである。ナチスドイツは自分たちドイツ人を、アーリアン(選ばれた民族)の子孫だと主張し、有色人種、セム族(ユダヤ人)を排斥した。ナチスドイツは、身体の各部位を測定し、「アーリア人」の基準を作成した。フィギュアスケートの採点とは、ナチスドイツの身体測定と同じようなものだと考えればいい。
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