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2006年06月09日(金) 哀れ漂う山本氏の辞任

世界中がサッカーで沸き立つドイツW杯開幕の日(6月9日)、山本昌邦磐田監督辞任の記事を見た。ひっそりとした、あまりにもさびしい記事だった。
筆者は山本がアテネ五輪代表監督のとき、当コラムにおいて厳しく批判を繰り返した(2004年2月11日付「コーチではだめだ」ほか)。いま繰り返せば、山本に監督経験がないことだった。世間では、山本はトルシエ前代表監督の補佐役として、W杯日韓大会で輝かしい実績を残したかのように思われていたが、筆者はまったくそう考えていなかった。山本に足りないものは、リーグ戦におけるリアルな監督経験にほかならないと。それなくして、山本の五輪代表監督就任はあり得ない、というのが筆者の基本見解だった。
筆者の予想どおり、アテネ五輪日本代表は予選を突破できず早々と日本に帰国した。にもかかわらず、山本は五輪敗戦の責任を問われることなく、J1の強豪・磐田の監督に招聘された。クラブ(磐田)は山本をプロの監督として育てる覚悟を持っていたのか。
磐田はちょうど、主力選手の世代交代にさしかかっていた。ゴン、名波のフランス大会経験者、福西、川口、服部の日韓大会経験者、ドイツ大会には川口、福西、田中(ケガのため帰国)が選ばれている。
山本は就任直後、千葉から茶野、チェ、村井を引き抜いた。その茶野、村井は、ジーコジャパンに呼ばれ代表として活躍したが、村井はケガでドイツに行けず、茶野はいつしか、千葉時代の輝きを失っていた。
また一方、磐田には、前田、カレン、菊池、成岡、太田、船谷、前田といった有望な若手が集まっていた。世代交代を円滑に行えば、磐田がJリーグを制覇するのは時間の問題だとだれもが思った。
有り余るほどいる代表、元代表、そして有望な若手――磐田の戦力はまちがいなく、Jリーグの中では屈指だったにもかかわらず、山本の就任1年目(05年)はリーグ6位。優勝争いにも絡めず、ナビスコ杯、天皇杯ともに準々決勝敗退だった。今季もリーグ戦はスタートダッシュに失敗し、他チームより1試合少ないものの、11位と低迷した。そして、ナビスコ杯準々決勝第2戦(8日)で4強入りを逃がした。
山本は、3年3か月契約で、執行役員の肩書きを持っていたのだが、自ら道を断った。クラブが山本を引き止める理由はなかった。クラブ(磐田)は、日本代表コーチ、五輪代表監督という山本の「輝かしい実績」から、チームの世代交代の実現に最適な人材だと判断したのだろうが、プロの監督としての経験不足は隠せなかった。クラブ(磐田)には、プロの監督・山本を育てる余裕も覚悟もなかったようだ。


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