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2006年06月05日(月) マルタ戦の目的は何か

W杯開幕直前にマッチメークされた日本vsマルタ。さて、この親善試合の目的は何だったのか。マルタがヨーロッパで最も弱い国の1つだという認識のもと、大量点を奪って、本番前の景気づけにでもしようと思ったのか。そのマルタは欧州予選でクロアチアと引分けている。日本がFIFAランキング20位前後なら、マルタの125位は低すぎる、というよりも、日本が高すぎるにすぎないのだけれど。
この試合の展開については報道のとおり。日本は2度の決定機を大黒がはずした結果、1−0の辛勝に終わった。後半はやや危ないシーンもあり、日本代表には、陽の当たったドイツ戦の後に、暗雲が立ち込めてしまった形だ。ドイツ入りした日本代表、“晴れのち曇り”といったところか。
先回のコラムで書いたとおり、サッカーでは、「過去(ドイツ戦)は忘れろ」なのだ。スポーツをやったことのある人ならば実感できることだけれど、調子には波がある。バイオリズムのような調子の波は、個人、チームを問わない。チームスポーツの場合、監督は選手を入れ替えたり、同じ選手のポジションを入れ替えたりして、チーム全体の調子を落とさないように努める。
実力は、だから、リーグ戦という長丁場で計られる。そこで平均的強さが試される。たった1試合、強豪に勝っただけでは、あるいは、おそろしいほどの強さ、上手さを示したとしても、それを実力といわない。
W杯の場合、最低3試合の予選リーグで実力が試される。五輪sサッカーで日本は、ブラジルを破った。いわゆる、「マイアミの奇跡」だ。五輪サッカーはW杯と同じシステムだが、予選リーグでブラジルを破ったにもかかわらず、日本五輪代表は予選リーグを突破できなかった。「過去(ブラジル戦)は忘れろ」なのだ。
筆者が代表監督なら、W杯開催直前、連続した3試合の親善試合を日本代表のためにマッチメークする。ドイツに到着できた後なら最善だ。相手は、豪州、クロアチア、ブラジルと似たタイプならば申し分ない。マルタ?さあ、このチームは豪州、ブラジル、クロアチアとは、まったく似ていない。
日本代表選手たちは、マルタ戦をどう位置づけたのだろうか。代表選手の中心であるヒデは、ドイツ⇒マルタ⇒豪州(本番)へと、チームの調子を高める試合としてイメージしたのではないか。ドイツで善戦ならば、マルタには完勝だ。控え組でも、3−0くらいの大差の勝利だ。その余勢をかって、豪州戦をピークの精神状態で戦い勝利し、予選リーグを勢いで乗り切る・・・
しかし、このシナリオは、完全に崩壊した。その原因は、代表選手がマルタ戦の位置づけを理解していなかったことだろう。選手に共通理解がないまま、なんとなく、マルタ戦に臨んでしまった可能性が高い。
ジーコは選手の自主性に任せるというが、選手に共通理解を醸成する役割は監督が担っている。なんでも選手に任せるのならば、監督はいらない。
先日の当コラムで、監督の「頭の中の勝負」と書いたけれど、マルタ戦から推察できることは、日本代表の頭の中は空っぽだったということだ。何にも考えない、出たとこ勝負を「選手の自主性」というのならば、日本代表は偶然性に依拠するチーム、たまたま、調子がいいときに勝つチーム、にすぎない。
アートの世界では、偶然の結果を傑作と言わない。意図したことが表現できていなければ、どんなに結果がすごくとも、優れた作品と認めない。だから、作家は多くの作品を残さなければ、適正に評価されないのだ。


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