Sports Enthusiast_1

2005年12月25日(日) フィギュアねぇ〜

フィギュア全日本選手権で採点ミスがあり、優勝者が取り消されたという。表彰式まで済ませた後の優勝取り消しだといういから、ことは深刻だ。原因は採点用コンピューターの設定ミスらしい。
筆者はそもそも、フィギュアをスポーツだと理解していない。フィギュアに限らず、採点競技であるシンクロ、体操もスポーツだと認識していない。もちろん筆者の採点競技=非スポーツが万人に理解されるとは思っていない。まったくの筆者の独りよがりである。
採点競技がなぜスポーツではないかというと、コンピューターを導入しようがしまいが、採点には採点者の主観性を免れないと思うからだ。女子フィギュアやシンクロでは、どんなに否定しようとも、競技者の外見に採点が左右されているに違いない。外見とは身体性の意だが、現代における身体性の理想はおそらく、西欧美術にその根源が求められる。バランスとしては八頭身であり、上肢と下肢の比率も加えられよう。
ナチスドイツはドイツ人の子孫を「アーリア人」という幻想の民族に求め、ドイツの子供達の身体を測定し、アーリア基準値を上回る子供(=優性遺伝子)を保護した。「アーリア人」とはおそらく、ヨーロッパ東方のスキティア地方から西欧に侵入した印欧語族と同義である。「アーリア人信仰」はインドでも根強く、肌の色が白い西欧系の外形の人々が、インドの上層階級を形成していることが多い。
いまの日本でフィギュアスケート――とりわけ女子――が話題をさらうのは、フィギュアファンが日本人の身体性が欧米に近づいたことを確認する喜びに浸るためにちがいない。かつて、女子フィギュアで活躍したIM選手は、技術的に優れていたものの、身体性においていまのフィギュア選手と異なっていた。だから、IM選手は多くの人々に応援されていたけれど、共感されてはいなかったように思う。
女子フィギュア(選手)は、プロで活躍すればいい。肌の色と同じ生地をつなぎ合わせて露出観を強調するような奇妙なコスチュームもやめたらいい。そんな規制を取り払って、人々が求める露出を強調したほうが自然だ。
当コラムでかつて書いたことがあるけれど、暗黒舞踏の土方巽は、身障者、胎児、老人、労働による身体畸形を舞踏にあえて取り入れた。それが西欧=近代の身体性に真っ向から対立する身体性であり、近代市民社会が人々に強いる矯正からの自由を象徴すると考えたからだと思う。
フーコーが記したように、矯正とは、監獄、病院、学校、会社、軍隊という国家(権力機構)が人々に強いるものだ。「市民」は学校に行き、体育教育を受け、市民社会に馴致する合理的身体性を学ぶ。さらに会社や軍隊で専門的身体性の訓練を受ける。そこから外れれば、精神病院や監獄で矯正される。
スポーツは、2つの矛盾する身体性が求めらている。勝つために軍隊と同じように、合理的身体性を求められる一方、究極の勝利達成のためには、そこからの逸脱を求められる。合理性と神秘性の二極化である。たとえば、ブラジルサッカーのファンタジー性は、近代的身体性の延長からは説明できない。合理的戦術構築を越えたものがブラジルサッカーの真髄かもしれない。バリーチュードも同様に、相手の攻撃から自らを守るため、“引き込み”という、相手と自分の身体性の抹殺の技を取り入れる。だから、バーリーチュードの寝技は、退屈そのもので鑑賞に耐えない。
フィギュアに代表される採点競技は、神秘主義や身体性の否定を認める技が入り込む余地がない。もし、土方巽のパフォーマンスに似せたフィギュアスケートの演技があったとしたら、競技の難易度にはおそらく差がないにもかかわらず。採点者は採点不能に陥る。あらかじめ技や美の基準が西欧という価値基準に一元化されているのだ。
筆者は、西欧的身体性の枠の中で先見的に競われる競技をスポーツと認めるわけにはいかない。サッカーは“手を使わない”という枠組しかない。勝つためならば、「少林サッカー」でもなんでも構わない。それがスポーツだと思う。


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