2005年08月25日(木) |
甲子園大会を中止せよ |
高校野球が揺れている。優勝校に暴力事件があった、そして、それを隠蔽した、重罪だ。 この事件を一高校の特殊な事件と見るか、あるいはいまの高校野球に潜む構造的な問題と見るかだが、もちろん後者だ。暴力事件の背景には、高校野球指導者の部員に対する人格否定がある。勝利(甲子園出場〜優勝)至上主義がもたらす、部員に対する人権侵害がある。 日本国中から優秀な野球高校生を集めてマンモス化した甲子園常連校の野球部は、高校のサークル活動とはいえないどころか、プロ集団そのものだ。配下選手総数はプロ球団より多い。そのような環境で過酷な競争を課し、部員をふるいにかける。練習メニューをこなせなかったり、他の選手に悪い影響を与えると指導者が判断した部員は排除される。排除の方法が陰惨な暴力だ。この連鎖が高校野球の構造的暴力の実態だ。 佐藤卓己氏(京都大学教授)が指摘するように、高校野球(甲子園大会)というのは、メディアがつくり、自ら取材し、思うように記事にする――自作自演の作品だ。自分がつくったイベントなのだから、取材のネタはいくらでもある。美談、浪花節、親孝行、友情・・・なんでも転がっている。ネタの数は、高校生の野球人口数と同じだ。美談等々はもちろん、サッカー、バスケ、卓球・・・の競技においても転がっているのに、なぜ高校野球なのか。新聞社が主催し、メディアの力で大衆を洗脳し、高校野球を特殊化したからだ。メディアが高校野球だけを突出させたわけだ。 シンプルに考えて、技術が未熟で未成年者が行う高校スポーツを、特別に報道することは、教育上好ましくない。高校生がメディアによって、特別に取り上げられていいわけがない。にもかかわらず、日本のメディアは、野球高校生を特別視する。尋常な機関ではない。日本のメディアは、高校生の若い血を好む「吸血鬼」にほかならない。別の角度からいえば、メディアが甲子園大会をつくり、それを大きく育てたものの、もはやメディア自身がその存在を制御できなくなってしまった。甲子園大会とは「怪人フランケンシュタイン」のようなものだ。もっといえば、「美談」と「暴力」の二つの顔をもった、「ジキルとハイド」だ。 巷間言われるところの、高校野球は国民的関心事では断じてない。報道しなければ、ただの草野球、草という表現が悪ければ、サークル活動以外のなにものでもない。 今回、優勝校に不祥事があったという事実は、反省の「いい」機会を与えてくれた。予選を通過した高校が部員の喫煙で本大会出場を断念させられたのだから、その基準に従って、優勝高は優勝を取り消されることが当然の措置だ。 これを機に、高野連は高校野球を見直して、以後、甲子園大会を中止したほうがいい。この際、TV中継禁止、選手・監督等へのメディアの取材を禁止したらいい。一方のメディア側は高校生への取材・報道を自主規制したらいい。 高校野球に「青春」をかける選手が可愛そうだ、という理論は成り立たない。野球を禁止しているわけではない。いままでどおり、地域ごとに予選大会を開催し、北海道から沖縄までの球場において、輪番で全国大会を開けばいい。「夏の甲子園」という奇妙な季節感は、メディアの作為にほかならない。あったってなくたって、国民の生活に支障がない。なくなって困るのは、それでカネを稼ぐメディアだけというわけだ。
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