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2005年06月16日(木) 相撲改革は幻想

相撲が芸能であることは前に当コラムで書いた記憶がある。いま世間を騒がせている「花田家問題」に興味はないが、花田家の一方が「相撲改革」を錦の御旗に掲げ、自らの正当性を確保しようとしていることを知った。筆者には、その主張は誠に奇異に聞こえるし、また、あるスポーツ評論家がそれを支持していると知ってさらに驚いている。
相撲人気が色褪せているというけれど、伝統芸能なのだから仕方がない。たとえば、歌舞伎と相撲、どちらが人気があるか知らないけれど、相撲は歌舞伎程度の人気で落ち着くと思う。相撲は男の宝塚であって、宝塚は男装が売り物で相撲は肉体美と時代錯誤の丁髷が売り物だ。それを好む好まないは、趣味の問題であって、相撲が合理的なスポーツに路線変更する必要はない。
部屋制度が相撲界に残る以上、場所優勝に合理性はない。個人競技ならば総当たり戦でなければならない。部屋制度が維持されていながら、総当たり戦を実現したとしたら、寝起きを共にし師弟関係で結ばれている同部屋力士に真剣勝負を求めることになる。筆者は彼等が本気の勝負をするはずがない、と確信する。
相撲を合理的な近代スポーツに変形すれば、「スモウレスリング」というものになる。それは、格闘技としては味気なく、いま以上のファンを集めることはないと思う。総合格闘技にデビューした曙の戦績及び試合内容を見た格闘技ファンは、力士の強さに疑問を抱いた。相撲が総合力に欠けた格闘技てあることは立証済みだ。
ならば、なぜ相撲が一定の人気を維持してきたのか――筆者は相撲のもつ型の魅力が人気を支えてきた、と考えている。相撲には型があり、それが美学を形成していると考えている。強い横綱を頂点にして、弱い大関あり、外国人、小兵、業師、押し相撲専門・・・ありといった個性派役者(=キャラクター)を揃え、張り手、投げ技、はたきこみ・・・という多様な技が繰り出され、強い横綱が優勝するかと思えば、弱い大関が優勝したりもする。こうした出し物の魅力がファンの支持を集めてきたのだと思う。
相撲は、プロレスに似た面をもっている。プロレスにはストーリーがあり、レスラーは役割を演じている。総合格闘技のように本気ではないけれど、では素人に真似できるかといえば、できない。相撲も同様、一流になるためには稽古が必要であり、下から勝ち上がらなければならない。けれど、勝ち上がってきた力士同士、場所中15番において、勝ち負けを融通し合うことがないとはいえない。無気力相撲として指摘されるのか、はたまた、白熱の演技で素人にばれないかどうかは別にして。
いずれにしても、場所、番付、個々の取り組み、繰り出される技等々を含めて、トータルな意味で相撲に貫かれているのは、型の美学なのだ。
勝つことを目的として、合理性に基づいて相撲を「改革」したとしたら、おそらく、型に貫徹された相撲の美学は失われるに違いない。「スモウレスリング」は見るに耐えないスポーツになるだろう。
力士は異形であり、存在するだけで価値がある。力士がタニマチに呼ばれてお座敷に上がるとき、服を脱いでいることがある。少なくともタニマチと記念写真におさまるとき、力士は服を脱ぐ。筆者は有名力士のそうした写真を何度か見たことがある。タニマチと呼ばれる熱狂的ファンは、強い力士と一緒に酒を飲むことを喜びと感じ、彼等と自分が近しいことが、自分の権力の一部だと考える。筆者はそういう関係を否定しない。相撲界が“ごっつぁん”体質だからといって、何が悪いのか。相撲界は非合理的な伝統社会であって、だからこそ、現代社会が生み出すことのできない「商品」を供給する。テレビで写る本場所だけが相撲ではない。たとえば地方巡業は、エンターテインメントとしての相撲の本質が滲み出ている。社交家としての力士は、夜の世界でも活躍している。これらも相撲の重要な一部なのだ。
筆者には、相撲は遠い存在だ。力士をお座敷に呼ぶ金もなければ趣味もない。本場所の取り組みの結果に興味を感じない。歌舞伎を見ることがないのと同様に、相撲を見たいと思わない。
けれど、伝統芸能としての相撲のあり方を否定する「合理主義者」ではない。そういう世界があることをもちろん容認するし、芸能として国技であっていいと思っている。


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