Sports Enthusiast_1

2005年06月11日(土) ダバディ氏の卓見

今朝のA新聞に掲載された、フローラン・ダバディ氏の「W杯出場−サッカー文化成熟の契機」を読んだ方は多いだろう。ダバディ氏は日韓大会当時の日本代表監督であったトルシエ氏の通訳を務めたことでよく知られている。その中でダバディ氏は、マスコミがW杯出場を狂気のごとく報道していることに比べ、サポーターは極めて冷静であったこと、海外組と呼ばれる日本代表選手がいろいろな意味で「成長」を遂げていること、などを指摘している。
ダバディ氏の指摘の通り、いまのところ、日本サッカーは代表を頂点とす一元性に拘束されており、それは日本社会の一元性の相似形だ。また、代表優先は東アジアのサッカー界に共通して見られる傾向だ。一方、欧州のサッカーでは、クラブ(リーグ)と代表の関係は拮抗しており、サポーターも複次元的にサッカーを受け入れる。スペインの場合は深刻で、世界のサッカー大国スペインだが、代表試合がバルセロナ(カタルーニヤ)で開催されることはない。カタルーニヤ(バルセロナ)のサッカー会場でスペイン(マドリード)国旗を振ることはあり得ない。スペインのように地域の独立性が強い国家においては、代表の意味は複雑だ。ダバディ氏は欧州で育ったから、日本の代表に一元化されたサッカー状況を理解しにくい。
それだけではない。日本のサッカー状況はクラブ、選手、サポーター、スタジアム、メディアを含め、「優しさ」に溢れていることも、ダバディ氏が指摘するとおりだ。筆者も、日本が代表チームをサポートする環境は世界一だと指摘した。そして、Jリーグの「お嬢様サッカー」に切歯扼腕していることをたびたび当コラムで書いた。トルコ、スペインでサッカーを見た友人は、向こうのサッカー会場には「暴力」が充満していた、と話していた。
ダバディ氏は日本サッカーの「優しさ」の向こうに、「守られている日本」を見ているのであり、欧州サッカーの「厳しさ」の向こうに、世界に開かれているがゆえに、移民問題や軍事的脅威に直面している「欧州社会の現実」を見ている。日本社会は移民を受け入れず、市場は閉鎖的であり、米国の軍事的支配を受け入れることで、他国の軍事的脅威から免れていると。
ダバディ氏は欧州サッカーとEUの関係を、国家(代表)を越える共同体(クラブチャンピオンリーグ)の関係に重ねている。だが、EU憲法がフランス、オランダの国民投票で否決された。欧州が再び連合から国家に回帰する可能性も否定できない。欧州の政治情勢はサッカーよりも不透明だ。
さはさりながら、ダバディ氏が日本サッカーと日本社会に求める「成熟」とは、多元的、複合的な共同体のあり方を意味している。その指摘に耳を傾けることは、日本人として、とても重要なことであることに変わりない。たかがサッカーというなかれ、サッカーは十分、その契機になり得るのだから。


 < 過去  INDEX  未来 >


tram