Sports Enthusiast_1

2005年04月02日(土) 深刻な問題(その2)

先日、W杯欧州予選、フランス(ホーム)vsスイスをたまたま見た。いい試合だった。筆者は欧州予選のすべてをチェックしているわけではないけれど、かなり良質な試合内容だったと思っている。試合結果は0−0のスコアレスドロー。ホームのフランスが格下と思われるスイスと引分けたのだから、観客として集まった8万人のフランス国民は不満にはちがいないだろうが、想像では、ある種の満足感を得て家路に着いたのではないか。
最も印象的だったのは、イエローが後半30分近くまで1枚も出なかったことだ。イエローが出ないからといって、激しさがないわけではない。スピードはあるし、チャージは激しい、タックルも鋭い。けれども、チャージは正当なショルダーチャージ、タックルは深いけれどボールにいっている。手を使ったチャージやトリッピング、ユニフォームを掴むシーンもない。後方からのタックルもないし、オブストラクションもない。両チームの選手が神の意思に従って、1つのボールを巡って役割を演じているようにさえ見えた。2つの有機体がボールめがけて互いに襲いあうようにも感じられた。「噛み合った試合」というのは、代表戦、リーグ戦を問わず、何試合に一回程度あるようだが、この試合もそれだった。
サッカーは手を使えない。手が人間の文明(知恵)の象徴だとするならば、手を封じられたこの競技は、人間が生物としての始原に遡る経路を辿っていることの象徴かもしれない。手は身体の中で微小なサイズでありながら、人間の知恵=傲慢さを象徴する機能をもっている。サッカーはそれを封じた競技であり、人間の原始、すなわち手以外の「その他身体」を顕現している。フランスvsスイスのような試合があればこそ、筆者はサッカーファンを辞められない。サッカーが与えてくれる至福とは、このような試合を見ることだ。
さて、前書きが長くなった。ここでとりあげる「深刻な問題」とは、サッカーの審判について。ご存知のように、バーレーン戦につづいてイランにも負けた北朝鮮(政府)は、バーレーン戦、イラン戦を裁いた2人の審判の判定に正式に抗議をした。イラン戦後、観衆がモノを投げ、審判団は数分間グラウンドにたたずんだまま、控室に戻れなかった。イラン選手に飛び掛ろうとした観客がいたらしいし、イラン選手のバスが観衆に取り囲まれたとも報道された。
北朝鮮のメディアは、ペナルティーエリアで北朝鮮選手が倒されたシーンを何度も流し、ファウル=PKを強調したらしい。日本のテレビニュースでそのシーンを見た範囲では、「問題のシーン」はファウルではない。あの程度でファウルをとったのでは、サッカーはおもしろくない。それでも、北朝鮮(政府)は、自国代表の敗戦は外国人審判の公正さを欠く判定にある、と自国民に訴えている。筆者はサッカーに政治的に介入する北朝鮮政府の存在を認めない。そんなことをしていたら、サッカーは政治の道具に成り下がる。
もちろん、北朝鮮(政府)の抗議と観客の暴徒化はリンクしている。抗議と暴徒化は、次回対戦する日本との試合に対する牽制球だ。もし、日本戦の審判が自国(北朝鮮)に不利な判定をするならば、北朝鮮の観客は何をするか分かりませんよ、というメッセージを発信した。いわば、無言の恫喝だ。こうしたプレッシャーを受ければ、北朝鮮vs日本を裁くアジアの主審は、あえてリスクを負おうとは思わないだろう。審判の深層心理に影響を与え、日本に不利な判定が増えることとなろう。
サッカーは特別な、そして、難しい競技だ。サッカー以外で、政府が政治的に介入するスポーツは少ない。たとえば、日本では人気があるプロ野球には、政治のセの字も出てこない。それほど難しいサッカー、とりわけW杯予選にもかかわらず、それを裁くアジアの審判のレベルは低い。北朝鮮で起きた事件は、十分、想定された。ジーコ監督もアウエーで負けたイラン戦、ホームで辛勝したバーレーン戦の2人の審判のみならず、抗議も何もしない日本サッカー協会に文句をつけたという報道もあった。残り3試合、日本代表はアジアの審判に相当、苦しめられるだろう。
だが、こうした事件が発生する要因は、審判技術だけにあるわけではない。審判の誤審や多発するカードは、アジアの選手の低い技術に起因している。日本を含めたアジアのサッカーはやはり、欧州に比べれば劣る。
ところで、誤審といえば、05年Jリーグの開幕試合が思い出される。磐田の福西がゴール近くからの味方のフリーキックを手で「ゴール」した事件だ。筆者はあの事件を不問に付すかのようなJリーグ幹部の発言や、「神の手」と茶化したスポーツメディアを批判した(2005年3月10日/「Jリーグは、わかっていない」)。あのようなプレー及び判定が特定の外国で起きたならば、日本人選手、日本人審判の安全は保証されないと書いた。それが大げさでないことは、北朝鮮におけるイラン選手と審判に及んだ危険が証明してくれた。協会、選手、審判を含め、日本サッカーの国際化はまだまだということだ。


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